2006年11月12日

2つの資本(主義):反差異・連続的同一性資本と差異共振シナジー資本

これについては、ある意味で、既述したが、イメージ(ヴィジョン)が湧いたので、記しておこう。
 プラトニック・シナジー理論における零度差異共振シナジー・メディア空間(以下、メディア空間、シナジー・メディア空間、等と簡略する)であるが、それは、精緻に言えば、永遠普遍空間・超時空間(四次元ないし五次元)であるが、これが、いわば、「現実」界・現象界に浸透している、染み込んでいるのである。しかしながら、メディア空間は、全体は、潜在している、それも、デュナミスとして潜在して、いわば、休火山である。メディア空間の極く一部が「現実」界・現象界に顕在化しているに過ぎない。「物質」であるが、それは、メディア空間の差異共振の反差異・連続的同一性体であると考えられる。つまり、「物質」とは、簡単に言えば、差異的同一性体の差異ないし差異共振シナジー性を捨象した側面である。あるいは、差異的同一性空間が、反差異・連続的同一性空間に投影された影像が、「物質」であると言えるのではないだろう。つまり、「物質」とは、差異的同一性の、反差異・連続的同一性空間への投影像と考えられるのである。反差異・連続的同一性空間が「物質」空間であり、近代においては、これが、「現実」空間と考えられたのであり、今日でも、唯物科学によって、これが現実だと考えられているのである。
 しかしながら、「物質」とは、あくまで、差異的同一性の被捨象像に過ぎないのである。差異の連続面のみを観察・観測しているのに過ぎないのであり、つまり、差異の表層・表面を現実としているんどえあり、差異の深層・本体・実相を無視しているのである。簡単に言えば、差異のエネルギーの、連続面の反映・投影像を見ているだけである。だから、「物質」のエネルギーとは、差異のエネルギーの反映に過ぎないのである。【例えば、電力の100ワットとは、「物質」エネルギー量であるが、しかし、これは、差異エネルギーを無視しているのある。つまり、差異共振シナジー・エネルギーを無視しているのである。これは、とりあえず、(i)*(-i)で表現できるだろう。(先に、Kaisetsu氏の仮説があるが、それが参考になるだろう。)それに対して、反差異・連続的同一性体である「物質」とは、それを否定して、(i)*(-i)⇒+1の結果の+1を見ているだけである。だから、100ワットとは、(10i)*(-10i)⇒+100ワットであるが、左辺を捨象しているのである。(おそらく、(i)*(-i)は、プロト量子空間であろう。量子とは、この「物質」像である。)】
 本論に戻ると、近代資本主義とは、反差異・連続的同一性=物質に基づく資本主義である。人間も、物質に還元されるのである。そして、これに交換価値がつけられるのである。商品としての人間である。物質主義・唯物論では、差異共振性が無視されるので、人間は、「疎外」されるのである。しかし、物質主義・唯物論の誤りは、以上の説明で明々瞭々である。零度差異共振シナジー空間・メディア空間の連続的同一性空間として物質空間・唯物空間があるのである。本体のメディア空間を無視しているのである。否、正確に言えば、メディア空間の現象態である心・思惟・意識・知性・精神と、物質空間・唯物空間との二元論に陥っているのが、近代空間なのである。思惟と延長の二元論である。近代派、前者のメディア空間が内在超越空間(内超空間)であるからことが認識できないので、両者を同列にして、さらに、後者の物質空間から前者を認識しようとしているのである。脳科学とは正に、そのようなものである。だから、例えば、「気」の現象の説明が物質空間科学ではできないのである。「気」は、差異共振シナジー空間・メディア空間を考えれれば、簡単に説明が出来るのである。
 結局、近代資本主義は、物質と精神の二元論ないし心身二元論であるが、物質中心主義・唯物論資本主義になっているのである。当然、メディア空間側からの異議申し立てが出るのである。(そして、ネオコンの場合は、アイロニカルな没入で、−1の倒錯になっているのである。)
 そして、時代的には、近代主義を超克するものとして、ポスト・モダンが生まれるのである。これは、反差異・連続的同一性を超克する差異理論を意味するのである。これは、哲学的には、ポスト・ヘーゲルである。キルケゴール、シェリング、ニーチェ、フッサール、他が、真正な先駆者である。そして、ポスト・モダンの系譜は、ハイデガーで、反動化し、連続論化するのである。そして、フランス・ポスト・モダン運動であるが、これは、ドゥルーズの場合、反動的な、ベルクソン/ハイデガー的連続論を継続して、失敗したのであるが、後期デリダにおいて、ポスト・モダンが継承されたと言えるのであり、日本において、鈴木大拙、西田幾多郎によって、ポスト・モダンが進展した。その後、不連続的差異論、そして、プラトニック・シナジー理論が創造されたのである。
 さて、問題は、反差異・連続的同一性が、もたらす心・主観性への影響である。反差異・連続的同一性現象としての物質を近代は発見する。そうすると、心・主観性・意識は、本来は、メディア空間であるから、差異を内包しているのであるが、逆に差異を否定・排除・排斥・隠蔽するようになるのである。この点では、近代科学による物質の発見は大きな影響をもっただろう。反差異・連続的同一性体としての物質という観点、つまり、唯物論は、心・主観性・意識を唯物化し、心にある差異を否定したのである。【思うに、これが、−(−i)の最初の−の発生の根因ではないのか。】つまり、物質のもつ反差異・連続的同一性の論理によって、メディア空間・心のもつ差異の論理(対極性・即非性の論理、あるいは、「ターシャム・オルガヌム」)が排除されたのである。二項対立の論理が、おそらく、物質の論理から形成されて、メディア空間の論理・差異の論理が否定されたのである。もっとも、アリストテレスの論理学は、古代からあるから、それに付加して、物質の発見があって、唯物論が生起して、二項対立論理が徹底したと言えよう。
 そして、これは、フッサール現象学の問題である。フッサールは、近代唯物科学、近代主義の反差異・連続的同一性科学を批判して、心・主観性・意識、即ち、メディア空間の科学を取り出したのである。これは、差異科学、メディア空間科学と呼べるであろう。
 ということで、19世紀後半から20世紀前半にかけて、近代主義批判と超克理論が創造されたのである。一方、近代科学と近代資本主義が前進して、産業が発達するようになるのである。しかし、近代科学は、相対性理論や量子力学で、反差異・連続的同一性の前提が破綻したと言えるだろう。これが、現代科学である。
 しかしながら、世界大戦等を繰り返すなど、世界は、暴力・狂気的様相を増したのである。近代主義と脱近代主義の争闘は続いているのであり、20世紀後半において、フランス・ポスト・モダン運動が勃興する。しかし、資本主義は、冷戦後、グローバリゼーションを迎える。アメリカのネオコンは、しかしながら、近代主義というよりは、反動である。資本主義は、いわゆる、情報資本主義へと転換していく。情報とは、実は、メディア空間の知的事象であり、情報化は、多元的知性を解放したのであり、知性の脱領域化が生じて、知は多元的様相となる。
 情報化と差異理論とが融合して現代的ポスト・モダン理論となるのであるが、これは、メディア空間の解放を意味すると言えるだろう。差異情報空間と言ってもいいだろう。そして、この現代ポスト・モダン状況において、資本主義が、ポスト・モダン的資本主義の究極態である差異共振シナジー的資本主義に変容する可能性をもっているのである。これは、内在超越するメディア空間を活用した資本主義であり、メディア空間・差異共振シナジー資本主義と呼べるであろう。資本は、差異共振シナジー資本、メディア空間資本、《メディア》資本となるのである。
 そして、この《メディア》資本を環流させる社会の血液として《メディア》貨幣が必要となるのである。それが、差異貨幣であり、反差異・連続的同一性資本の貨幣とは異なるものでなくてはならないのである。それは、Kaisetsu氏が提唱されているように、銀本位制によって実現される可能性があるのである。メディア空間的社会のメディア貨幣としての銀本位制の貨幣である。
 とまれ、以上のように、ポスト・モダン資本主義としての、差異共振シナジー資本主義、メディア空間資本主義が提起されるのである。

2006年11月06日

−(-i)の最初の−はどこから発したのか:同一性自己=自我の発生構造について

詳しくは後で論じたいが、この−(マイナス)の原因が分かれば、人間の問題は、ほぼ解決したと言えるだろう。この−のために、人は苦しんでいるのである。そう、この−は、《悪魔》と呼んでいいのであるが、どこから、この《悪魔》が人類の精神にやってきたのかである。

 先の考察は、「メディア界」からの能動的な1/4回転で、⇒−1(近代的自我)が生起すると考え、そして、反転による差異の活性化によって、近代的自我(同一性自己)と差異(的自己)とが分裂すると考えたのである。この考え方の問題点は、能動的な1/4回転を理論化できないことである。

 だから、ここで、再び、直観考察(直観推理)しよう。問題は、⇒+1である。即ち、(+i)*(-i)⇒+1の⇒ +1である。ここでは、自己と他者とが共立することで、差異としての自己となっている。これは、また、特異性の自己と言ってもいいだろう。ルネサンスの個とは、この数式があてはまるのである。デカルトだけでなく、スピノザ哲学もこれで説明できるだろう。というのは、(-i)に能動的観念を含むことができるからである。

 問題は、同一性の現象化である。主観の同一性化である。ここで精緻・厳密になるために、用語を確定しないといけない。「メディア界」の極性は、不連続的差異の極(イデア極)と同一性の極(現象極)がある。そして、同一性への展開として、現象化が出現するのであるが、これを同一性現象化と呼ぶと、ルネサンス的個という同一性現象化は、(+i)*(-i)⇒+1の+1で記述されると考えられる。⇒+1とは、だから、差異的同一性ないし特異性的同一性を意味しているのである。

 しかるに、近代的自我のもつ同一性は、当然、これではなくて、先に述べたように、(+i)*-(-i)⇒−1と考えられるのである。つまり、内的差異である(-i)を否定した、無差異的同一性である。ここで明快しておけば、数値の1が同一性である。そして、+1が、差異的同一性ないし自己である。次に、 −1が、反差異的同一性ないし自我である。これで、用語は整理された。

 では、本テーマを考えよう。どうして、−(-i)の最初の−が発生したのか。この問題は、以前からのアポリア(難問)になっているのである。これまでは、結局、優秀な差異と低劣な差異の二種類の差異があるということで説明してきたのである。優秀な差異とは、(+i) *+(-i)を維持する自己である。低劣な差異とは、それを維持できず、+を−に替えてしまうということになるのである。

 この+(-i)の+とは何だろうか。スピノザ的に言えば、当然、能動的観念に関係する能動性であろう。思うに、−(-i)となるような状況に対して、優秀な差異(優秀な自己と言った方がいいだろう)は、+(-i)を保持する能動性をもつのである。つまり、差異共振シナジー性を保持しようとするのである。

 「− (-i)となるような状況」とは何だろうか。これは、内的他者の否定である。内的他者を否定する状況とは何だろうか。これは、端的に言えば、殺すことではないだろうか。生きるため、生き物を殺さなくてはならないのである。ここで、内的他者を否定する必要があるのである。あるいは、隣人や、外部の者の所有物を盗む、奪う必要がある状況である。例えば、飢渇の状況にあるとき、「わたし」は、生物を殺したり、隣人や外部の人間の食物を奪ったりするだろう。「−(-i)となるような状況」であろう。言わば、極限状況における生存のための暴力行使である。人食い(カニバリズム)も、当然、ここから発生するだろう。無情・残忍・冷酷・無惨、等々の生存意志である。(参照:武田泰淳『ひかりごけ』)

 古代においては、これに対して、儀礼を行い、償いをしたと言えよう。贖いである。つまり、-(-i)の行為に対して、補償行為として+(-i)行為を、おそらく、過剰な行為を行ったと考えられるのである。おそらく、供儀(くぎ)は、ここから発生しただろう。そして、社会共同体の掟・道徳・倫理・コードが発生するのである。

 しかし、近代的自我の発生の場合は、明らかに、この社会共同体的コードが崩壊した状況にあったと言えよう。人間は生きるために、「−(-i)となるような状況」が必然的に伴うのである。だから、それを償うために、社会で、「共同体」の儀礼・道徳・コード等を定めて、いわば、「メディア界」の倫理を保持したのである。この「メディア界」の倫理のために、「−(-i)となるような状況」が生じても、+(-i)に回帰できたのである。これが、人類社会を保持してきたと言えよう。

 しかし、近代的自我の発生する時期は、社会コードが崩壊した環境にあったのである。つまり、社会倫理、「メディア界」倫理が崩壊した環境にあり、「−(-i)となるような状況」に対して、それを倫理的に補償することができなくなっていたと考えられる。つまり、「−(- i)となるような状況」は、そのまま、継続されるのである。だから、自己が、(+i)*-(-i)⇒−1という近代的自我になったのである。即ち、+(- i)の倫理が喪失されてしまっていたのである。言い換えれば、差異の倫理、他者の倫理、「メディア界」倫理が喪失した状況・社会環境にあったのである。この倫理は、当然、エネルゲイアとしての倫理でなくてはならない。強制力をもつ倫理でなくてはならない。

 思うに、近代化が一番先に生じたと考えられるイギリスにおいて、共同体の破壊が、囲い込み運動によって起こる。その共同体の破壊、即ち、社会倫理の崩壊によって生じた−1の人間を、シェイクスピアは、とりわけ、『リア王』によって描写していると考えられるのである。文学研究においては、二つの自然ということが『リア王』について、昔、言われた。即ち、リア王の体現する「自然」(位階的王権秩序)とエドマンドの体現する「自然」(無頼・無法者・悪人:つまり、物質的自然:ホッブズ的自然)である。後者にリア王の酷い娘達(ゴネリル、リーガン)が入るが、彼女達は、末娘のコーディリア(父思いの娘)と好対照である。劇中のある人物がどうして、同じ母からこのような異なる娘が生まれたのかと述べているのであるが、この二つの自然とは、実は、ここで述べた「共同体」の崩壊によって生じたと考えられるのである。シェイクスピア悲劇とは、近代の悲劇、封建的共同体の崩壊の悲劇、即ち、(i)*-(-i)⇒−1の、没倫理の悲劇なのである。ホッブズの社会哲学が生まれたのも、当然と言えよう。(ついでに言えば、イギリスで、このような没倫理化が起こった原因は、単純化すれば、プロテスタント化だと思う。カトリック的宗教権威が衰退して、物質主義的権力が強化されたことだと思われる。できれば、後で、さらに検討したい。)

 最後に、現代日本の「自己愛性人格障害」(近代的自我狂気症候群)であるが、これは、ここで述べたことがそのままあてはまるだろう。社会倫理の崩壊があるのであり、それが、(i) *-(-i)⇒−1という近代的自我を蔓延させたのである。日本の社会倫理の崩壊とは、一つは排仏毀釈のような神仏分離、そして、一つは戦後の唯物科学教育に、イデオロギー的には、拠ると言えよう。とりわけ、後者の唯物科学と結びついた唯物資本主義によって、経済的に引き起こされたと言えよう。

参照:

『近代の誤り⇒倒錯・『物の優位』という過ち』

http://theory.platonicsynergy.org/?eid=401706

Theories for the Platonic Synergy Concept.

2006年11月02日

写真と精神:精神的視覚と「写実」:同一性主義批判と新東洋文明曙光(はてなダイアリーから)

〓〓Β.jpg先に、映画 と精神 について、簡単に言及したので、ここで、本件について簡単に触れたい。もっとも、これは、芸術 と精神 ないし感覚と精神 の問題として一般化できるが、一般論 は、ここでは置いといて、写真 と精神 に限定したい。(そう、これは、デザイン と精神 、等々と展開するだろう。)

 映画 については、ベラ・バラージュの古典 の『視覚的人間 』があるが、

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003355717/sr=8-1/qid=1162439021/ref=sr_1_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books

精神 の表現技術 の方にウェイトが置かれているだろう。(この書は、思うに、映画 の一種モダニズム的理論 だろう。)

 映画 の精神 表現については、精神 的視覚性が映画監督 に必須の資質だと思っている。つまり、美術 的資質である。それに物語 の資質等が加わって、映画芸術 が可能になるだろう。小津安二郎 の映画 (少し過大評価 ではないかと思われるが)は、やはり、美術 的側面というか、絵画的側面が強いだろう。

 では、本件の写真 と精神 のテーマ については、どうだろうか。これも、直観では、精神 的視覚性が基礎だと思うのである。つまり、やはり、美術 的資質である。(映画 や写真 は美術 芸術 に入るものであるし、漫画やアニメもそうである。しかし、精神 表現がなくてはならない。)

 精神 的視覚とは、何か、ということになる。これは、「イデア 」的視覚であるし、ヴィジョン的視覚とも言えるだろう。(神秘的に言えば、透視 に近いのであるが、「霊視」になると、これは、逆の二元 論となり、病理的倒錯である。)これを、プラトニック・シナジー理論 の視点から考察 すると、これは、とりもなおさず、不連続的差異 の即非共立的視覚ということではないだろうか。精緻に言えば、不連続的差異 即非共立的「同一性」志向視覚ではないだろうか。これを図式化しよう。

差異1☯差異2☯・・・☯差異n   (差異即非界)

において、☯→=(即非→同一性)が、プラスの志向性として生起するし、同時に、☯→dd (discontinuous difference:即非→不連続的差異 )が、マイナス の志向性として生起すると考えられる。

 精神 的視覚、イデア 的視覚とは、☯→=(即非→同一性)における→=(→同一性)に存するのではないだろうか。光の志向性と言ってもいいだろう(それに対して、→dd は、闇の志向性と呼べるのではないだろうか)。換言すると、精神 的視覚=光の志向性とは、即非共立ヴィジョンをもった「同一性」視覚ということになろう。これは、不思議 なヴィジョンではあるが、単純化すると二重のヴィジョンであるが、正確には、多重多層複合融合的ヴィジョンである。この精神 的視覚能力が、美術 的資質・才能 ・天才である。これで、すでに、写真 と精神 のテーマ は、解決しただろう。結局、現象に対して、精神 的視覚を向けて、撮影したものが写真 芸術 である。(後、闇の志向性と写真 の問題があるが、これは、課題としておこう。)

 さて、最後に、「同一性」の問題を考えたい。先に、連続 的同一性と不連続 的同一性(特異性的同一性)を区別した(これは、量的同一性と質的同一性と言い換えることもできるだろう)。しかし、同一性という言葉 は、差異の現象に対して、直に使用すると落ち着きが悪いと感じられるのである。

 →同一性と言えば問題がないのである。とまれ、精緻・厳格に検討しよう。連続 的同一性とは、差異=微分 であり、虚構に過ぎない。つまり、真正な事象には、存在 しない、ヴァーチャル なものである。では、実際の→同一性を分析的にみてみよう。

 零度差異共振 シナジーによって、諸・不連続的差異 が連結し、連続 化し、同一性となる。ここで、作業仮説であるが、諸・不連続的差異 が、それぞれ、同一性になるとしよう。つまり、差異1、差異2,・・・差異nが、すべて、同一性になるということである。つまり、差異k=同一性(連続 的同一性)【差異k→同一性が正確である】である。しかし、この多数の同一性・連続 的同一性の集合連続 体自身が、一つの連続 的同一性体を形成していると考えられるのである。ということで、差異k→同一性の連続 的集合体として、連続 的同一性体を考えることができる。(これから、→を連続 的同一性志向性を意味 する記号としよう。)差異k→同一性→同一性体となる。

 私が、これまで、連続 的同一性と呼んだものは、=同一性体(同一性個体)のことである。では、不連続 的同一性とは何かとなると、当然、→同一性体(同一性個体)のことである。簡単に言えば、→である。つまり、志向性には、差異即非共立性・差異共振 シナジー性があるということである。メディア 界があるということである。始点が存しているということである。根源が存しているということである。

 ということで、同一性の問題は、→(志向性)があるか、否かの問題なのである。近代主義とは、この→を否定・無化した観念体系であると言えるのである。結局、連続 ・同一性主義ないし連続 ・同一性中心主義である。これで、同一性の問題は解決したとしよう。

 では、→を否定・無化した近代主義は、この否定によって、どういう事象を引き起こすのかという原理的問題がある。実際的結果は、超大惨事 ・破局・悲劇・悪夢 であったことは、否定できない。理論 的に考察 しよう。→を否定・無化することは、自然 の根源的力=エネル ゲイ アを否定することになるのである。すると、当然、根元的力がブロック されるので、反動 的力が作用するのである。反作用である。この反動 的力が暴力 なのである。社会学 的に言えば、ホッブズ の万人の万人に対する戦争 である。あるいは、狂気である。パラノイア や人格障害 のような精神 病理・狂気である。そして、近代資本主義 の攻撃力である。つまり、資本 を連続 ・同一性化したために、資本 のもつ差異的エネル ゲイ アを否定しているので、暴力 ・狂気・非合理主義的な連続 ・同一性主義的資本主義 が生まれたのである。西欧・米資本主義 とは、このようなものであり、植民地主義 、帝国主義 、冷戦 、等々を生んだのである。結局、近代という時代は、人類史において、最悪の時代として記録されるのは、確実である。《悪魔 》が支配したのであるから。

 とまれ、今や、大局的に見ると、否定・無化された→が復活し、ポスト ・西欧近代のエポック 、即ち、新東洋文明の黎明期 を迎えているのである。反動 であったフランス・ポストモダン もとっくに終焉して、今や、真のポスト ・西欧近代、ポスト ・ウェスタン ・モダン である。ネオ ・プロト モダン である。ネオ ・ルネサンス である。東洋ルネサンス である。

 しかしながら、現代日本は、世界でいちばん、近代主義に汚染されて、超倒錯の社会 になっているのである。近代狂人 たちの社会 なのである。近代狂気から覚醒しないといけない。

f:id:sophiologist:20061102172928j:image

http://www.zion-jpn.or.jp/pics/k02.jpg

 狂気近代日本からのエクソダス である。今や、新東洋文明という約束の地が見えたのである。ピスガ山越えである。そう、ヘルダーリン 、キルケゴール 、メルヴィル 、ニーチェ 、フッサール 、鈴木 大拙 、西田幾多郎 、ウスペンス キー、D.H.ロレンス 、折口信夫 、多くの天才たちが、ピスガ山に達して、新たな約束の地である新東洋文明を指し示していたのである。

Overcome Continuous Identity Modern!

Practice and Realize Exodus

from the Most Insane Modern to New Orient !


http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20061103

から
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連続的差異と同一性:近代の終焉と新東洋文明

今は、簡単に触れるに留めるが、私が問題にしたいのは、先に述べた不連続的同一性と連続的同一性の問題である。領域で言えば、メディア/現象境界の事象である。これは、正確には、不連続的差異論の問題であるが。同一性の問題に関して、重要な問題なので、精緻に考察したい。
 端的に言えば、差異=微分の連続体・積分に基づく同一性と不連続的差異の同一性(特異性の同一性)の問題である。もっとも、これは、不連続的差異論の成立の基礎になった問題で済んでいるものではあるが、近代科学の問題に関係するので、ここで取りあげるのである。ここで、図式化すれば、☯→=が、メディア界から現象界への図式図である。Kaisetsu氏の自己認識方程式を使用すれば、(i)・(-i) ⇒1である(この記号の方が、内在超越性ないし超越次元性を提示できるので、的確である。もっとも、Kaisetsu氏は、一人称と限定して、厳密化しているが。)。差異=微分ないし連続的差異という虚構・仮構は、☯ないし(i)・(-i)という事象を認識せずに、連続同一性とその集合を意味するのである。連続同一性を、ci(continuous identity)とすれば、ciの連続・集合体として根源界があることになるのである。ci, ci, ci, ・・・ci が、連続同一性集合体である。そして、これを積分したものが現象的同一性である。∫ciである。ここでは、連続同一性のciが共通単位となったいるのである。
 しかし、☯ないし(i)・(-i)という事象においては、当然、ciは存しないのであり、差異1☯差異2☯・・・☯差異n(思うに、差異1(i)・(-i)差異2(i)・(-i)・・・(i)・(-i)差異nと表現できるのではないか)が存在しているのであり、ここにあるのは、個々別々の不連続的差異の極性共立即ち即非である。どこにも、ciは存しないのである。ただし、即非的同一性が形成されるだろう。→=ないし⇒1である。これを私は、先に不連続的同一性と呼んだのである、ciが連続的同一性であるのに対して。
 フッサール現象学にも通じるが、近代科学は、ciをベースにして、それを数量形式=「物質」形式化して成立しているのであり、☯ないし(i)・(-i)という事象、あるいは、志向性を認識していず、無視している結果になっているのである。結局、差異=微分=連続的同一性=「物質」形式が、近代科学、唯物科学の基礎・基盤・大前提なのである。
 問題は同一性である。近代科学の同一性(ヘーゲルの観念形式)だと、個物・個体は、一般的個体になり、特異性を喪失しているのである(参考:ヘーゲル哲学:個別性は一般性である。)。ここでは、唯名論的個物・個体が、実念論的観念と一致するのである。これは、まったくの画一性、機械的同一性である。この連続的同一性が、近代的現代を支配しているのである。資本主義も、連続的同一性資本主義なのである(有り体に言えば、金融資本主義である)。そして、これを、フッサールは晩年の『ヨーロッパ諸学(諸科学)の危機と超越論的現象学』で説明していると考えられるのである。
 私が言いたいのは、事象は、不連続的同一性、特異性的同一性であるのに、それを、連続的同一性であると誤解していることである。これは、フッサールの『危機』を不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の視点から言い換えたものである。つまり、現象という事象としての「もの」は、不連続的同一性=特異性的同一性であるにもかかわらず、近代的人間は、それを、連続的同一性として誤謬して見ているということである。つまり、近代科学幻想で、現象を見ているのであり、真の現象事象を看過されているということなのである。生活世界は、この真の現象事象を経験したものにほかならないだろう。近代主義は、連続的同一性幻想・妄想・狂信なのである。
 今や、近代は、完全に、終焉したのである。これが、ポスト西欧近代主義ないしポスト近代西欧主義である。では、いったい何が、ここで、出現したのだろうか。コスモス、プラトニック・シナジー界、メディア界、「玄牝」・太極(陰陽太陽)、等が出現しているのである。新たに、古代、東洋、アジア、母権制が復活しているのである。新しい古代ー東洋ーアジアー母権制である。新しいコスモス、新しいガイアである。新しい多神教である。新しいイシス・オシリスである。私は、
新東洋文明と呼びたい。
posted by sophio at 02:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 新東洋文明 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月30日

(i)・(-i)というプラトニック・シナジー界の内包する意味:イデア界の位置づけと二つの同一性

先にKaisetsu氏が提起された自己認識方程式、即ち、(i)・(-i)⇒1は、オイラーの等式や黄金比、等に匹敵する、否、それ以上の根源的方程式・公式のように思える(p.s. 即ち、大発見である)。とりわけ、(i)・ (-i)の部分である。これは、不連続的差異論のメディア界を指すが、プラトニック・シナジー理論では、零度差異共振シナジー界、即ち、プラトニック・シナジー界を意味する数式であると考えられる。換言すると、ここに、プラトニック・シナジー理論のエッセンスが凝縮されていると言っても言い過ぎではない。
 私は、ここから、不連続的差異論のイデア界との関係、あるいは、空間、時空間の問題を考察したいと思っている。イデア界との関係は、用語の問題が少しある。プラトンのイデアとは、ほぼ、プラトニック・シナジー界の「イデア」であると思えるのである。だから、区別するために、「メディア」という用語を使うべきかもしれないが、これも、混乱させる恐れがあるのである。
 とまれ、たとえば、プラトン的に、花のイデアとは、プラトニック・シナジー界に存すると言えるのである。花のイデアとは、デュナミスであり、また、エネルゲイアである。(ちなみに、アリストテレス哲学の問題は、超越次元を無視しているところである。プラトンの超越次元を、プラトニック・シナジー理論では、虚軸を、無視しているのである。)そして、花のイデアのあるプラトニック・シナジー界とは、プラトンのコーラ(形態形成場と考えられる)に相当するし、西田哲学の場所も、ここに相当するだろう。また、当然、鈴木大拙の即非論理学の位置(トポス)もここである。(思うに、ドゥルーズ&ガタリは、離接という概念を提起したが、それは、とりもなおさず、即非の論理のことである。しかし、彼らの不十分さは、離接を内在平面に置いていることである。内在平面とは、プラトニック・シナジー理論から言うと、プラトニック・シナジー空間、即ち、メディア空間の連続・同一性平面である。差異=微分空間である。これは、即非空間ではないのである。ところで、今思ったのは、同一性と連続的差異とは異なるのではないかということである。これについては、後ほど検討したい。)
 では、イデア界とは、プラトニック・シナジー理論から見たら、どう位置づけられるのだろうか。Kaisetsu氏のガウス平面的プラトニック・シナジー理論から見ると、虚軸が、プラトニック・シナジー界であり、実軸が現象界(「現実」界)であり、現象界を空間三次元とすると、虚軸が時間軸であり、それで、時空四次元が形成される。いわば、プラトニック・シナジー四次元時空間である。
 では、イデア界を付け加えるには、どう考えたらいいのだろうか。これまでの考え方では、イデア界のX軸の1/4回転で、メディア界のY軸が形成されると考えてきた。しかし、今では、X軸実軸は、現象界のことになっているのである。私は、先に二種類の1/4回転があるだろうと述べた。第一番目の1/4回転が、イデア界からメディア界を形成し、第二番目の1/4回転が、現象界を形成するという考え方である。そうすると、第五次元以上を考えることになる。作業仮説的に、プロトX軸、原X軸を考えれば、それが、イデア界になるだろう。あるいは、X軸をイデア界、Y軸をプラトニック・シナジー界、Z軸を現象界として考えることができるのではないだろうか。そうすると、プラトニック・シナジー界(メディア界)と現象界は、Y軸とZ軸との関係になると考えられる。
 ならば、イデア界は、X軸であり、XY平面とYZ平面の二つのガウス平面が生起するのではないだろうか。用語・概念の問題であるが、プラトニック・シナジー平面(メディア平面)は、YZ平面であり、イデア平面はXY平面になるのではないだろうか。
 とまれ、この空間視点から、上記した同一性と差異=微分の問題を考えると、思うに、同一性ないし連続・同一性とは、Z軸上の実数であろう。しかし、差異=微分の考え方とは、虚軸Y軸の即非論理を認識せずに、虚軸Y軸に連続的差異を想定していると言えるだろう。つまり、虚軸Y軸と実軸・現象軸・Z軸との直交関係を否定して、両者を一様のものとしているのである。つまり、虚軸と実軸の不連続性ないし内在超越性を認識せずに、連続・内在性を見ているのである。つまり、連続的差異の展開としての同一性である。連続的差異とは、内在平面に存すると、ドゥルーズは考えているのである。だから、この視点の同一性とは、連続的差異的同一性である。
 しかるに、プラトニック・シナジー理論における同一性とは、(i)・(-i)の即非的極性における同一性であるから、不連続的差異的同一性なのである。私が眼前に見るリンゴは、不連続的差異的同一性、あるいは、特異性的同一性のリンゴなのである。これを連続的差異的同一性のリンゴと見たら、唯物論である。唯物科学・量子論的リンゴとなるだろう。両同一性は、似て非なるものである。簡単に表記すれば、連続的同一性と不連続的同一性である。これは、まったく別のものである。どうも西洋哲学ないし哲学一般は、両者を区別して来なかったように思える。唯名論と実念論の問題、即ち、個物と観念の問題、あるいは、アリストテレス哲学とプラトン哲学の問題、唯物論と観念論の問題、等々。この問題は、現象界と超現象界の問題に還元することができるだろう。つまり、二項対立、二元論なのである、現象界主義か超現象界主義か、の問題にされてしまったのである。個物かイデアか、ということになるのである。ヘーゲルは、これを統一しようとして、弁証法を構築する。しかし、それは、連続的差異=観念の統一仮説であり、一般形式理論なのである。ヘーゲルは、個物は、同一性であるとして、この同一性観念から統一を志向するのである。しかし、この同一性は、不連続的同一性ではなくて、連続的同一性である。特異性が喪失されているのである。(特異性は、キルケゴールが宗教批判として展開することになった。)
 連続的差異論とは、言い換えると、アトム論である。現象の個体・個物の根源要素として「アトム」を考え、これが、連続して個体・個物が形成されるという考えである。単位の連続的集合としての個体・個物である。そして、この連続論においては、唯物論も観念論も同形である。連続的形式が共通なのである。つまり、唯物論とは、個物の連続的形式として物質を考えるのであり、観念論とは、個物の超次元としての連続的形式としての観念を想定するのである。つまり、西洋哲学は、特異性ないし単独性を看過しているのであり、これに対する批判が、キルケゴール、ニーチェ、フッサールによってなされたと言える。東洋からの批判者としては、鈴木大拙や西田幾多郎がいるのである。また、ロシア(ロシアは、ユーラシアと見ないといけないだろう)からは、ウスペンスキーが出たのである(『地下生活者の日記』のドストエフスキーも、これに近いだろうが、ドストエフスキーの発想は、シュティルナーの唯一者と共通すると考えられるのである。つまり、一見単独者であるが、それは、エゴイストである。つまり、(i)・(i)=−1と思われる。後で検討。)
 そして、フランス・ポストモダン(このように言えば、ポスト・モダンの用語はプラトニック・シナジー理論の発見の後でも、使用できる)は、これを発展するはずであった。とりわけ、ジル・ドゥルーズは、特異性singularityに注目して、差異哲学の創造を目指したのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論の成立の経緯からわかるように、ドゥルーズの差異理論は、たいへんな誤謬を犯していたのである。ポスト・ヘーゲル、即ち、ポスト・モダンという思想環境にありながらも、ドゥルーズは、連続的差異、即ち、ヘーゲルに戻るという反動行為を犯してしまったのである。そう、ドゥルーズ理論は、大反動であり、際物理論である。非常にたちが悪いのである。なぜなら、特異性singularityと言いながらも、連続的差異(差異=微分)を主張しているからである。これは、虚偽的誤謬である。ペテンである。
 さて、本論にもどると、結局、西洋哲学は、連続的形式に拘束されていたが、ポスト・ヘーゲル=ポスト・モダンとして、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、鈴木大拙、西田幾多郎、ウスペンスキーらが出現して、不連続論を提出し、ポスト・モダン環境を構築したのである。しかし、これは、フランス・ポスト・モダンという大反動によって、目隠しされてしまったのである。日本においては、フランス・ポスト・モダンを信奉する唯物論的知識人たちによって、ポスト・モダン環境が排除・隠蔽されてしまったのである。(私見では、真正なポスト・モダンに近づいたのは、柄谷行人であろう。しかし、彼は、唯物論者で、差異・「イデア」を把捉・理解できなかったのである。また、中沢新一であるが、彼は、ドゥルーズ主義者であり、似非理論家である。)そう、ポスト・モダンは、フランス知識人によって、葬られてしまったのである。似非ポスト・モダンであったのである。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダンの本流を復活させて、進展させたのであり、これは、連続的差異論を批判・否定して、不連続的差異である特異性のイデア論の創造的発見である。だから、本論にもどると、二つの同一性があるのであり、これを区別しないといけないのである。不連続的同一性と連続的同一性である。数式化すると、(i)・(-i)⇒1という同一性と(i)・(-i)=1という同一性である。このように考えて、先の私の考察の複雑さ、微妙さがわかるのである。具体的に言えば、眼前の柿一個であるが、これは、正しくは、不連続的同一性である現象、(i)・(-i)⇒1である。これに対して、それを連続的同一性である現象、(i)・(-i)=1と見れば、仮象である。
 さて、このよう現象同一性を見ると、プラトンのイデア論はどうなるのだろうか。現象界はイデア界の仮象であると考えているのである。(i)・(-i)から見れば、確かに1という同一性は仮象になるだろう。しかし、(i)・ (-i)⇒1から見たときは、どうだろうか。⇒1は、仮象なのだろうか。1は仮象ではなく現象である。本象であろう。思うに、ここには、プラトンのイデア論とプラトニック・シナジー理論の差異があるのではないだろうか。前者は、現象仮象論であるのに対して、後者は現象本象論である。眼前のリンゴ一個の同一性は否定すべくもないのである。これを仮象としたら、生活は成り立たないのである。この点についは、後でさらに検討したい。

プラトニック・シナジー経済と『超越的価値』:明日野氏の論考の紹介

以下、明日野氏のすばらしい「プラトニック・シナジー経済」への概念が述べられているので、ご紹介します。
 とても、含蓄のある論考だと思います。後で、考察したいと思います。

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2006.10.30 Monday

価値の二面性についての若干の考察

次のrenshi氏の論考に触発されて考えた。

TOWARDS PLATONIC SOPHIENCE
Sun, October 29, 2006 23:49:00
何故、現象に没入するのか:同一性価値経済と差異価値経済:プラトニック・シナジー経済へ向けて
テーマ:プラトニック・シナジー経済



『価値』には、超越的価値と世俗的価値が存在するのである。
これは、マルクスの「使用価値」と「交換価値」と似ているが、むしろ、マルクスの概念を拡張した概念であり、より一般性をもつ概念である。
 超越的価値とは、そのものの存在形式であり、哲学的には「形質」と呼ばれるものだ。「質」である。
 世俗的価値とは、有用性とか、量的な把握とか、現世利益に置き換えられる価値である。
 所謂、イデアとは、超越的価値に関する概念である。
 マルクスの「使用価値」「交換価値」は、全て、世俗的価値に関する理論にすぎない。
 貨幣とは、『王の紋章を戴く命令の財産的裏づけ』と考えている。現代の『王』とは国家である。将来の王とは?コミュニティーであろうか、それとも国際機関であろうか?ノマッドか?
 どのような形であれ、情報化社会に於ける『貨幣』は、プラトニック・シナジー理論に沿う様式を持ち始めると考えている。
 つまり、超越的価値の体現である。
 このためには、世俗的価値の地位を貶める必要が在る。
 世俗的価値を身体にするのだ。
 このために、銀本位制を提唱したい。
 世俗的価値の裏づけを同じにして、『王』の紋章⇒「情報」による差異によって、超越的価値を体現するのだ。
 個人でも、銀の裏づけを持って、『王の立場』で貨幣を発行可能だ。個人が国家よりも『超越的価値』で勝っていれば、この『個人』の通貨が広く流布する。
 ユヌス氏とグラミン銀行の実験は、まさに、小さな母体であっても、『超越的価値』の見地からは、国際機関や国家よりも大きな超越的価値を具現できることを証明している。

http://theory.platonicsynergy.org/?eid=396624

Theories for the Platonic Synergy Concept.

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以下は、私の記事です。


http://ameblo.jp/renshi/entry-10019095729.html#c10031177847

Sun, October 29, 2006 23:49:00
何故、現象に没入するのか:同一性価値経済と差異価値経済:プラトニック・シナジー経済へ向けて
テーマ:プラトニック・シナジー経済
リンゴ1個、いくら、柿1個、いくら、等々。物には、価格があり、売買される。リンゴ1個=同一性価値とされて、これが、人間を同一性に埋没させる根因ではないのか。本当は、リンゴ1個は差異価値なのに。リンゴ1個、二百円である。これが同一性・一般価値とされる。これは、プラトニック・シナジー価値の半面である同一性価値だけを取り出したものである。この同一性価値が支配して、差異価値を排除しているのである。人間も、同一性人間となり、差異人間を排除する。これが、現代日本である。
 しかし、ここには、差異がないので、すべてはメカニズムである。経済に差異価値を取り戻す必要があるのである。差異貨幣、差異資本が必要なのである。
 Kaisetsu氏の自己認識方程式から見ると、=1の同一性価値の経済世界となっていると言えよう。(i)・(-i)⇒1、⇒1の差異を内包した経済世界が必要である。これは、ある意味で精神経済の必要である。(i)・(-i)であるプラトニック・シナジー・エネルゲイアという「精神経済」の必要である。そう、ルネサンス経済である。これを創造したいのである。プラトニック・シナジー資本経済である。プラトニック・シナジー貨幣が必要でもある。これは、創造資本経済なのである。
 では、具体的にはどういうことなのか。リンゴ1個100円としよう。これを売ったお店は、利益を10円としよう。10円のうち、創造資本経済のために、5円蓄えるのである。買った人は、リンゴ1個を食し、創造資本経済のための身体を形成するのである。
 創造資本経済は、(i)・ (-i)経済である。これは、精神のエネルゲイアが作動しているのである。気のエネルゲイアと言ってもいいだろう。差異共振エネルゲイア経済である。宇宙共振経済である。差異共振貨幣が必要だろう。現在の貨幣は、同一性資本貨幣である。それは、エントロピー貨幣である。コスモス貨幣が必要である。魂と貨幣が共振しなくてはならない。精神貨幣である。
 後でさらに整理して検討したい。

参考:
紫色の牛が よく売れる時代☆
http://ameblo.jp/pilot/entry-10019036166.html

コメント

■若干の考察をしました。

2006.10.30 Monday
価値の二面性についての若干の考察
次のrenshi氏の論考に触発されて考えた。
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=396624
Kaisetsu (2006-10-30 01:31:27)

2006年10月28日

「イデア」(=差異共振イデア)と「物質」との関係:あるいは、「物質」とは何か:「もの」と物質V4

Kaisetsu氏の以下の論考は、コメントされているように、本件の考察と共通するものがある。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10018941143.html#c10031001140
一言で言えば、メディア界ないし差異共振シナジー界と現象界との非対称性である。これは、まず、確認しておくべきことである。非対称は、不連続と呼んでもかまない。この絶対的断層は、実に根本的な論点であり、これをこれまでの、ほとんどの哲学/科学(例外は、キルケゴールやニーチェやフッサールや鈴木大拙やウスペンスキーである。西田幾多郎も含めていいかもしれない)は認識せずに、連続性の理論に留まり、袋小路に入ってしまったのである。そして、不連続的差異論を包摂したプラトニック・シナジー理論は、この例外の理論を総合し、さらに進展し続けているのである。

 さて、本件の問題をさらに続けたい。同一性と現象というテーマで検討したい。先の論考では、同一性は同一性仮象ということになった。少し不分明であるのは、同一性自体の意義である。果たして、同一性という事象が存しているのか、それとも、それは、単に仮象ないし虚構に過ぎないのか、という問題があるのである。あるいは、仮象や虚構とは何かという問題でもある。
 ここでも、私の直観から話を進めよう。私は、個体は特異性であると考えている。例えば、眼前の一個のリンゴは、特異性なのである。その隣にあるリンゴも特異性である。では、リンゴという事象自体は、何なのか。明らかに、同一性である。(先に、リンゴという事象において、同一性と特異性が併存・共立していると述べた。)そして、また、同一性は仮象であると述べた。即ち、同一性仮象と考えた。結局、同一性と同一性仮象とが併存していることになるのである。どちらが、正しいのか、それとも、・・・。
 考察を簡単にするため、もっとも単純に図式化しよう。

リンゴの「イデア」:差異1☯差異2

リンゴの現象:差異1☯→=差異2 (又は、差異1☯→ー差異2)

としよう。ポイントは、☯→=(ないし☯→ー又は☯→ー・=)にあると言えよう。同一性としてのリンゴは→=ないし=である。特異性としてのリンゴは、差異1☯→=差異2総体にあると言えよう。→=と=は、微妙な点である。特異性としてのリンゴの同一性とは、前者、すなわち、→=ではないだろうか。そして、日常、同一性としてのリンゴを意識する場合は、=であろう。
 そうならば、現象としてのリンゴは、どちらなのだろうか。それは、両方考えられるだろう。特異性における同一性ならば、→=であるし、単なる同一性ならば、=であろう。現象界においては、両者が混淆ないし共立・併存していると言えるだろう。
 では、本論の仮象の問題であるが、同一性とは仮象なのであろうか。同一性は現象ではある。これも微妙な問題である。リンゴの「イデア」の現象としてのリンゴの同一性は仮象ではなく、「イデア」のもつ現象という側面である。それは、いわば、本象(ほんしょう)である。「イデア」が本体であるとすれば、本象としての同一性現象である。仮象ではないのである。
 では、何故、仮象という考えが出てくるのか。それは、単なる現象としての同一性を見たときに、生起する考えであろう。つまり、「イデア」を喪失して、単に現象のみを考えるならば、現象は仮象となるのであろう。結局、同一性は、仮象か現象かの問題は、視点・コンテクストに拠ることになったのである。
 さて、次に、ここで得られた観点から、近代科学、唯物科学・物質主義科学について考察しよう。それの問題は、「イデア」を否定して、単に現象のみを本体とし、それを数量的に総合化する点にあると言えよう。つまり、「イデア」理論ないし「イデア」科学から見れば、仮象理論、仮象科学である点が問題なのである。つまり、同一性中心主義であり、同一性を数量・定式化・総合化して、現象を説明している点である。完全に、差異や「イデア」を否定して、同一性現象=物質として捉えているために、説明できない現象が多く生じているのである。精神現象・心的現象・宗教現象、量子力学の非局所性、ダークエネルギーやダークマター、気の現象、共時性(シンクロニシティ)、存在現象、等々が説明できないのである。そして、明らかに、行き詰まっているのである。いわゆる、ニューサイエンス、ニューエイジ・サイエンスにしろ、物質科学と精神・宗教現象との折衷で終わっているのである。つまり、つまり、量子と精神を、類似性から、等価して、理論的整合性は不問のままで終わっているのである。
 結局、唯物論か「イデア」論かである。そして、プラトニック・シナジー理論は、後者の立場で、多くのアポリアを解決し、また、しつつ、あるのである。
 最後に、同一性の問題に再度触れると、近代主義とは、同一性中心主義であり、差異を喪失した思想であると言えよう。ポストモダン、ポスト近代とは、だから、ポスト同一性中心主義であり、差異主義なのである。しかるに、これまで、執拗に繰り返し述べたように、いわゆるポストモダン運動は、同一性との連続した差異を考えていたために、まったく不十分なのであった。ポストモダンの原点であるキルケゴールやニーチェやフッサールの理論、あるいは、鈴木大拙の理論には、ポスト連続的差異の理論があったが、それを認識できなかったのである。おそらく、ポストモダンの流産ということが言われるはずである。これは、きわめて、由々しき問題である。後で、検討したいが、簡単に述べると、連続性の思想とは、これまで、述べたように、全体主義やファシズムの思想である。これは、右翼・左翼を問わない。共産主義・社会主義にも関係するのである。そう、近代的自我、近代合理主義に関係するのである。換言すると、同一性連続主義である。これが、近代主義や通俗のポストモダンを拘束していたものである。コギトとは、本来、特異性である。これが、同一性中心主義へと展開していったのである。思うに、デカルト哲学自体が、矛盾しているのである。コギトの哲学は、特異性の哲学であるが、いわゆるデカルト合理主義は、同一性中心主義である。つまり、まったく異質な理論をデカルト哲学ははらんでいたのではないだろうか。コギトは、特異性自己であり、その展開として、同一性自己が発生するのである。この同一性自己と同一性中心主義が結びついて、いわゆるデカルト合理主義となったのではないだろうか。カントは、デカルトの同一性自己→同一性中心主義の側面を超越論的形式としたのであり、コギトの特異性や現象の特異性は、実践理性や物自体に留めたと言えるだろう。コギトの特異性を深化させたのは、キルケゴールやニーチェやフッサールであったと言えるだろう。(作家や芸術家は除いておく。メルヴィルやD.H.ロレンスはコギトの特異性の作家であるが。)あるいは、仏教哲学者の鈴木大拙や西田幾多郎がそうである。
 おそらく、近代哲学、近代理論の不幸が言えるだろう。ルネサンスは、ネオ・プラトニズムをもっていたが、それを、哲学に活かしたのは、おそらく、スピノザぐらいであろう。ただし、ネオ・プラトニズムは、流出論であり、連続論であるのに注意しないといけない。つまり、問題は、近代におけるイデア界ないしイデアの次元である。ルネサンスにおいては、イデア界やイデアの次元があったが、それを、科学理論的には喪失していったのである。やはり、科学理論におけるアリストテレス主義の問題があるのかもしれない。あるいは、プラトン主義とアリステレス主義の分裂という西洋文明の問題である。二元論である。唯名論と実念論の分裂。
 とまれ、不連続的差異論そしてプラトニック・シナジー理論によって、西洋文明の二元論は、完全に超克されたと言えるのである。ポスト西洋文明であるが、新東洋文明なのか、それとも新東西文明なのか。思うに、東西文明の分離自体が怪しいのかもしれない。

「イデア」(=差異共振イデア)と「物質」との関係:あるいは、「物質」とは何か:「もの」と物質V3

「イデア」(=差異共振イデア)と「物質」との関係:あるいは、「物質」とは何か:「もの」と物質:Ver3

「イデア」の影としての現象である。現象としての「もの」と物質としての「もの」は違うだろう。例えば、「わたし」が触れる水は、前者であるが、これをH2Oと見るのが後者である。現象的「もの」と物質的「もの」とは別のものである。プラトニック・シナジー理論的に言えば、現象的「もの」とは、同一性現象であり、物質的「もの」とは、同一性形式現象ではないだろうか。
 もっとも、私は、現象的「もの」とは、特異性であると主張してきているのであり、そうすると、同一性(現象)と特異性との関係が問題になるのである。私が、現象的「もの」に接するとき、例えば、「もの」を見るとき、それは、光の影像を見ているのである。そして、「もの」に触れれば、それは、感覚像に触れているのである。つまり、なんらかの現象像、現象感覚像に接しているのである。(ここには、知覚、言語、認識の問題が入るが、議論の簡略化のため、おいておく。)
 この個々の現象像は、同一性個体である。例えば、これは、一つのみかんであり、隣にあるのは、別の一つのみかんである。私が見る、触れる、食べるみかんは、みかんとしては、同一性であるが、同時に、特異性(個)であると私は考えるのである。つまり、現象像としてのみかんは、同一性であり、且つ特異性であるということである。例えば、みかんの「イデア」を差異1☯差異2☯・・・☯差異nと考えよう。これが、連続・同一性化すると、差異1=差異2=・・・=差異nになるとしよう。=は、みかんの同一性である。差異をdと表記して、記号化しよう。

みかんの「イデア」:d1☯d2☯・・・☯dn

みかんの現象:d1=d2=・・・=dn

である。後者の問題は、差異が等号化されていることである。これは、矛盾であるが、このままにしておこう。そして、物質としてのみかんを考えると、

物質としてのみかん:同一性1ー同一性2ー・・・ー同一性n

である。この同一性1は、たとえば、ビタミンCであり、同一性2は、クエン酸である。これらが、集合連続体(「有機体」)となったものが、物質としてのみかんである。
 ここで、現象としてのみかんと物質としてのみかんを比較してみよう。前者における=が、同一性であり、これが、物質としてのみかんを形成していると考えられる。(同一性であるが、正確には、連続・同一性であり、記号はー・=と表記すべきであるが、簡略のため、同一性=を使用する。)物質としてのみかんには、差異が欠落しているのである。ここで、煩雑ではあるが、精緻・正確に図式化・記号化してみよう。

「イデア」としてのみかん:d1☯d2☯・・・☯dn

              ☯   ☯    ☯
現象としてのみかん:  d1↓ d2↓・・・ ↓dn
              =   =    =


↓  の記号は、メディア界から現象界への移行を示す。


図式化の都合上、これを☯→=と表記することにする。即ち、


現象としてのみかん:d1☯→=d2☯→=・・・☯→=dn

となる。(先の現象としてのみかんの=は、☯→=の意味であったのであり、これならば、矛盾はなくなるのである。)物質としてのみかんは、等号の側面である。すると、差異はなくなり、同一性の集合・連続体となる。

物質としてのみかん:同一性1ー同一性2ー・・・ー同一性n

又は、Id1ーId2ー・・・ーIdn(ただし、Idは、同一性Identityの略であり、ーは連続性の記号である。)そして、例えば、同一性1がビタミンC、同一性2がクエン酸、等々となるのだろう。物質自然科学ないし唯物自然科学は、この同一性の連続体を分析・解明しているだけに過ぎないのであり、現象としての「もの」を捉えていないのである。カントの物自体とは、実は、この現象としての「もの」(この場合は、現象としてのみかん)を意味すると言えよう。また、当然、これは、「イデア」を内包しているのである。端的に言えば、☯→=(「イデア」→同一性)が物自体のポイントである。
 ここで、私が考える個体・個物の特異性について言うと、それは、☯→=の☯→の部分が当たるだろう。つまり、差異ないし「イデア」のもつ同一性への志向性である。これが、特異性なのであり、これを、物質科学は、看過・無視しているのである。これは、エネルゲイアとも言えるだろう。しかし、単に物質エネルギーではない。物質エネルギーの本体としてのエネルゲイアである。つまり、エネルゲイア(同一性への志向性)の物質像が、エネルギー(物質エネルギー)であると考えられるのである。【ここで、想起するのは、ドゥルーズの説いた強度であるが、それは、このエネルゲイアのことを本来意味していると見るべきであろう。しかしながら、ドゥルーズは、連続的差異(差異=微分)を考えているので、強度と物質エネルギーとが混同されていると考えられるのである。ということで、エネルゲイア=強度としていいだろう。】
 さて、残りの問題は、☯→=における同一性への志向性と同一性自体との関係である。この問題は、これまで、気がついていたが、いわば、留保しておいた問題である。つまり、同一性とは、純粋に同一性なのか、それとも、同一性の影ないし疑似同一性なのか、という問題である。現象としてのみかんとは、同一性をもっている。みかん1,みかん2,みかん3,・・・は、みかんとして同一性である。だから、単純に、同一性は存在していると見ていいように思えるが・・・。私が問題にしているのは、実体として同一性は存在しているのか、どうかである。イデア論ないしプラトニック・シナジー理論から言えば、実体は差異だけにあり、同一性は、影像に過ぎないだろう。
 問題の視点を変えよう。「もの」として考えよう。現象としての個体・個物は、「もの」である。そして、これは、☯→=という志向性をもっているのである。現象・「もの」としてのみかんd1☯→=d2☯→=・・・☯→=dnであるから、現象・「もの」ないし個体・個物としての「同一性」とは、やはり、☯→=の強度の帰結に存すると言えるのではないだろうか。つまり、志向性の終点としての「同一性」であり、それは、極言すれば、差異の様態としての「同一性」ではないのか。
 問題を明晰にしよう。みかんと言う場合、確かに、みかんは同一性である。これは、疑いようがない。それを、リンゴと呼んだら誤謬である。みかんの同一性とリンゴの同一性は、排他的である。ここには、排中律がある。しかし、この同一性は、☯→=のことではないだろうか。同一性への志向性ではないだろうか。同一性への志向性が同一性になっているのではないだろうか。
 より精緻化して考察しよう。☯→=は、正確には、☯→ー・=である。つまり、連続・同一性への志向性である。そして、これが、現象・「もの」・個体/個物を生起させるのである。だから、通常、同一性としての現象とは、連続・同一性への志向性としての現象ということになる。だから、みかん1,みかん2,・・・等の同一性としてのみかんとは、連続・同一性ヘの志向性の終点である。有り体に言えば、同一(同一性)に見えるということである。見えである。見えとしての同一性であり、これは、理論的には、連続・同一性への志向性の終点である。
 ということで、同一性は、仮象・虚構・見えに過ぎないのである。(換言すると、見えとしての同一性と同一性が混同されているということである。)この同一性への志向性と同一性とが、現象界・「現実」において、混同されていると言えよう。そして、物質科学・唯物科学は、これを踏襲しているのである。見えとしての同一性を同一性自体として捉えて、理論化しているのである。つまり、同一性科学なのである。カントの用語を用いれば、超越論的形式科学である。この同一性=超越論的形式を数量・計量化して、近代科学・唯物科学が形成されたのである。だから、数量同一性科学である。これは、現象を「捨象」した科学である。現象のもつ個物・「もの」・特異性を捨象した科学である。言い換えると、連続・同一性への志向性を捨象した科学である。これは、差異・「イデア」・差異共振シナジー事象を捨象した科学である。仮象科学である。現象科学ではないのである。これで、近代科学批判が成立した。
 では、ここで、フッサール現象学を想起するのであるが、フッサールは、正に、連続・同一性への志向性を理論化した大天才である。ポスト同一性科学・ポスト近代科学としての現象学である。以上の検討から、現象学は、現象科学と呼ばれてしかるべきである。あるいは、「イデア」科学ないし差異科学(差異共振シナジー科学)である。生活世界ないし生活界とは、メディア界の発現としての現象界のことだろう。近代科学は、現象ではなくて、同一性仮象を対象としている同一性仮象科学である。それは同一性仮象界ないし仮象界を対象としている。換言すると、ヴァーチャルな世界を対象としているのである。
 ニーチェ哲学とフッサール哲学と鈴木大拙即非哲学/ウスペンスキー思想を継承し総合化した新イデア論であるプラトニック・シナジー理論は、当然、現象科学・「イデア」科学・生活界科学・叡知科学(ソフィエンス)でもある。

2006年10月27日

「イデア」(=差異共振イデア)と「物質」との関係:あるいは、「物質」とは何か:「もの」と物質

「イデア」の影としての現象である。現象としての「もの」と物質としての「もの」は違うだろう。例えば、「わたし」が触れる水は、前者であるが、これをH2Oと見るのが後者である。現象的「もの」と物質的「もの」とは別のものである。プラトニック・シナジー理論的に言えば、現象的「もの」とは、同一性現象であり、物質的「もの」とは、同一性形式現象ではないだろうか。
 もっとも、私は、現象的「もの」とは、特異性であると主張してきているのであり、そうすると、同一性(現象)と特異性との関係が問題になるのである。私が、現象的「もの」に接するとき、例えば、「もの」を見るとき、それは、光の影像を見ているのである。そして、「もの」に触れれば、それは、感覚像に触れているのである。つまり、なんらかの現象像、現象感覚像に接しているのである。(ここには、知覚、言語、認識の問題が入るが、議論の簡略化のため、おいておく。)
 この個々の現象像は、同一性個体である。例えば、これは、一つのみかんであり、隣にあるのは、別の一つのみかんである。私が見る、触れる、食べるみかんは、みかんとしては、同一性であるが、同時に、特異性(個)であると私は考えるのである。つまり、現象像としてのみかんは、同一性であり、且つ特異性であるということである。例えば、みかんの「イデア」を差異1☯差異2☯差異3と考えよう。これが、連続・同一性化すると、差異1=差異2=差異3になるとしよう。=は、みかんの同一性である。つまり、言い換えると、差異1=みかん「イデア」=差異2=みかん「イデア」=差異3である。差異をdで、みかんの同一性をMIで表記して簡単にしよう。

MI(みかんの「イデア」):d1☯d2☯・・・☯dn

現象のみかん:d1=MI=d2=MI・・・MI=dn

となる。私が触れる現象のみかんは、=MIの同一性をもっているが、しかるに、 d1、d2、・・・、dnを内包している。これが、特異性に当たるだろう。
 物質としてのみかんは、みかんの同一性MIだけである。これは、ビタミンCであったり、クエン酸であったり、植物繊維であったり、水分H20であったり、するだろう。
(参考:みかんhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%B3
つまり、=MIとしてのみかんである。例えば、d1=MI=d2がビタミンCであり、d3=MI=d4がクエン酸であるとしよう。それらの集合連続体としての同一性のみかん、物質としてのみかんである。
 ということで、現象としての「もの」と物質としての「もの」との区別ができたであろう。両者、同一性が共通であるが、前者には、特異性があり、それは、影である差異共振性であると言えるのではないだろうか。
 「もの」という言葉であるが、それは、同一性と特異性の両者を含む現象的個物を指す言葉と考えられよう。だから、現象としての「もの」とは、端的に、「もの」である。
 さて、カントの物自体であるが、この観点から言えば、物自体とは特異性である。プラトニック・シナジー理論から言えば、差異共振シナジー事象である。


注:以上は、「検討問題:メディア空間と自己との関係、その他」http://ameblo.jp/renshi/entry-10018941143.html
の2の部分を独立させたものです。

p.s. 「もの」と物質を以上のように分離できたが、=MIの意味をより精緻にする必要があるだろう。差異1=差異2の等号は、どういつことなのだろうか。本来は、両者、差異であるから、イコールにはならないはずである。このところの構造はどうなっているのか。思うに、連続性を意味する記号を考えた方がいいだろう。連続性をーで表記しよう。すると、差異1と差異2が連続すると、差異1ー差異2となり、これが、現象としてのミカンとなる。「もの」としてのミカンである。
 しかし、差異1−差異2は、差異1=差異2と同じ事象である。連続・同一性という現象化を意味しているのである。ここで、正確に記述するならば、ーや=の記号には、☯が内包されているのである。これを内在性と考えたのがドゥルーズ(&ガタリ、あるいは、ハイデガー)である。しかし、これを単に内在性とするのは誤りである。これは、内在超越性と見ないといけないのである。以前、私は、2度目の1/4回転のことを述べていたが、やはり、それを考えた方が明晰になると考えられるのである。メディア界からの1/4回転によって、連続・同一性化=現象化が生起すると考えるのである。メディア界における不連続性・差異と連続性・同一性の即非性・極性が隠蔽されて、連続性・同一性が顕在化して、現象化するのである。「もの」となるのである。
 結局、連続・同一性(ー・=)は、内在超越性を内包しているのである。つまり、☯を内包しているのである。そして、これが、現象である個物(「もの」)における特異性であろう。もし、純粋な超越性であれば、特異性は現象界においては、生起しないはずである。メディア界と現象界が、絶対的に分離することになるはずである。(もっとも、用語の問題もある。超越性で、内在的超越性を意味することもあるのである。混乱を避けるために、内在(的)超越性を超越論性と呼ぶこともできる。)
 ところ、2種類の1/4回転を考えることで、明確に四次元空間を説明できることになる。これまで、1種類の1/4回転のみで、空間を説明しようとして、三次元空間に留まっていたのである。これについては、後で再検討したい。

2006年10月22日

現代日本の亡神的エゴイズムとプラトニック・シナジー理論

先の考察から、現代日本の狂気が、亡神によることが判明した。これは、一つのブレイクスルーに近い考え方であろう。戦後日本、天皇が人間宣言をして、現人神は消滅した。と同時に、日本の神が喪失されたと言えよう。戦後、日本人が、アメリカの物質主義文明の洗礼を受けて、唯物科学・技術・資本主義を発達させたのである。象徴天皇制になり、神のシンボルが消えたのである。あるいは、神のアレゴリーが消えたのである。人間は不可視のものに対しては、鈍感である。可視的ならば、信じるのである。神のシンボル・アレゴリーの喪失とアメリカ物質文明とが、相俟って、戦後日本、今日の日本が形成されたと言えよう。
 思うに、戦後は折口信夫を例外として、神の精神を喪失していったと言えよう。私見では、初期〜中期の大江健三郎には、神の精神が作動していたと思う。(三島由紀夫は反動である。戦後日本への反動である。)結局、近代合理主義/唯物科学・技術/戦後民主主義が戦後近代主義を形成したのであり、それは、日本人の神の精神の喪失のもたらしたのである。現代の日本人の精神の荒廃は、この帰結である。精神の悪魔化である。
 この点について、理論的に考察しよう。端的に問おう。何故、神を避けるのか、排除するのか、排斥するのか、等々。戦前、戦中は、現人神/天照大神を信仰していたのに。棄神がある。折口信夫は、敗戦に際して、日本の神敗れたりと、無念の極みにあった。神道の神が、キリスト教の神に敗れたと考えたのである。しかし、不思議なことに、日本人は、アメリカ物質文明を貪欲に取り入れたが、キリスト教は取り入れなかった。これは、韓国において、クリスチャンが多いのに比すと、なおさら、不思議である。とは言え、積極的に日本人が神の信仰を表わしたわけではないのである。
 思うに、日本の神は、隠れたのではないだろうか。一種「お隠れ」である。だからこそ、潜在的に作動しているのである。そのため、邪教が蔓延り、人々に被害をもたらしていると言えよう。政治とつるんだ宗教団体、霊感商法、カルト、等々、淫祠邪教が蔓延っているのである。
 日本人の不幸は、隠れた日本の神のエネルゲイアがありながら、それを知性・理論・合理・科学化できないことにあったのではないだろうか。戦後の公教育の基本はいわば唯物科学教育であり、神の精神教育は喪失されているのである。これは、戦前の反動である。つまり、日本人の神のエネルゲイアはありながらも、戦後の唯物教育のために、日本人はそれを意識・認識・知性化できなかったのではないだろうか。仏教はともあれ(私は葬式仏教を廃止すべきと考えているが)、神道アレルギーがあるだろう。そうかと言え、キリスト教に改宗する気持ちは少ないだろう。否、キリスト教に改宗しても、日本的宗教としてのキリスト教になるだろう。
 結局、戦後から現代、日本人の神のエネルゲイアは潜在してきたが、これを意識・知性に取り込むことができずに、唯物科学・技術・産業を進展させてきたと言えよう。戦後の日本の発展は、根源には、この日本の神のエネルゲイアが駆動していたと考えられるのである。しかしながら、政治家、官僚、知識人等は、これを利己的に利用したのである。日本人の神のエネルゲイアを国民に意識化させない方向で、導いたのである。(おそらく、ここには、北米合州国の意向もあったろう。)そう、国民自身も、神のエネルゲイアを差別して、排除してきたと思うのである。アイヌや沖縄、在日人への差別は、これと関係するだろう。連続・同一性共同体信仰によって、差異を差別排除したのである。しかし、差異こそ、神のエネルゲイアの発現である。
 私見では、オイル・ショック以後、日本は、USAと「連帯」化して、現代のような神無し砂漠となってしまったのである。亡国である。
 議論が逸れてしまったが、ここで、神のエネルゲイアと唯物無神論の関係をまとめると、戦後米国的近代主義によって、神のエネルゲイアを排除・排斥するようにして、唯物論/近代的自我・合理主義が日本人の精神に定着するようになったのである。神のエネルゲイアとは、プラトニック・シナジー理論では、差異共振シナジー・「エネルギー」(=メディア界)のことである。(このエネルゲイアを物質的エネルギーと取ってはいけない。心身・精神的エネルギーである。)このエネルゲイアの排除・排斥が、今日、日本の常態になってしまっているのである。とりわけ、東京である。これは、利己主義であり、自我中心主義である。他者の喪失である。悪魔化である。差異の排除が、精神の構造になってしまっているのである。差異否定・排除・差別の連続・同一性=二項対立精神構造が形成されているのである。この悪魔的否定精神が、日本人にいわば、憑依しているのである。ニーチェ的に、ルサンチマンと言ってもいいだろうし、現代風に、自己愛性人格障害と言ってもいいだろう。偏執狂・パラノイア・分裂症である。近代主義狂気である。
 この神のエネルゲイアの排除構造を突破しないといけない。このためには、ポスト近代主義/ポスト唯物論しかないのである。これは、ポスト西洋文明である。アジア的神の新文明が生まれなくてはならないし、理論的には、プラトニック・シナジー理論によって、誕生しているのであるが。
 最後に、何故、神のエネルゲイアを否定・差別・排除・排斥・隠蔽するのか。恐怖であろう。それは、戦後日本、近代日本を破壊するからである。近代主義のアイデンティティを破壊するからである。そう、単独・孤独となることを恐れるからである。しかし、そのために、未来は閉ざされるのである。怯懦な日本人であり、未来を喪失しているのである。とまれ、もう一度問うと、何故、差異を恐れるのか。これが、疑問である。同一性自我陶酔がそこにはあるだろう。差異を否定して同一性自己である近代的自我を形成しているのである。そう、差異とは、特異性、単独性、不連続的差異に他ならない。他者とは、まったく異なる自己が差異である。だから、差異を意識したとき、自己と他者との距離ができるのである。不連続性があるのである。しかしながら、この不連続性・不連続的差異性を、人は恐れるのである。そう他人の目である。あるいは、世間の目である。それを恐れて、自己の差異・不連続的差異を否定・排除・隠蔽するのである。これである。つまり、差異が劣弱なのである。もし、差異が強ければ、他人の目・世間の目を恐れずに、差異を肯定して積極的に思考し、実践するだろう。差異の弱さである。
 思うに、差異を肯定するには、差異の理論が必要なのである。差異の思想・哲学・科学が必要なのである。差異の文化である。差異の言語である。差異の論理である。差異の芸術である。近代主義は、連続・同一性主義であるから、差異の理論は見つかりにくいのである。また、差異は、内在超越性であるから、近代的内在主義では、見出せないのである、もっとも、きっかけは、そこにあるとしても。
 とまれ、神のシンボルの喪失、近代的自我・近代合理主義・近代資本主義、差異理論の稀少さ、連続・同一性共同体の存在、等々によって、日本人は、差異である神のエネルゲイアを排除して、近代唯物的連続・同一性=集団狂気化したと考えられるのである。この差異=日本の神のエネルゲイアの否定・排除・隠蔽とは、暴力・傲慢・狂気・不毛である。

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