2007年02月12日

自己と他者の問題:連続的同一性は自己から他者への志向性のみか、それとも、双方向志向性なのか

問題提起:自己と他者の問題:連続的同一性(連一性)は、自己から他者への志向のみなのか、それとも、双方向性があるのか。

どうも、この問題は、まだ、解決されていないと言うべきである。これまでの経緯を言うと、初めの考えは、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式において、i を自己、-iを他者として、i→(-i)=i*-(-i)⇒-1とし、また、i←(-i)=-i*(-i)⇒-1として、自己の連続的同一性と他者の連続的同一性を認めたものであった。

 しかし、最近は、自己の連続的同一性のみを認めて、他者の連続的同一性を否定したのである。

 ここで、サルトルの他者は地獄であるという比喩的表現を考えてみよう。このときの他者は、自己に連続的同一性を強いているように見える。つまり、なにか暴力的に、自己を否定して、他者の権力を押しつけようとしているというようなことになるだろう。そのように見ると、確かに、他者の連続的同一性があるように考えられるかもしれない。

 しかしながら、よく考えてみると、サルトルの場合の他者とは外的他者であり、これは、実際は、自己内において否定された内的他者の外部への投影であると見るべきであると考える。即ち、i*-(-i)⇒-1という自己連続的同一性事象が発生し、そこに生じた自我(連続的同一性自己)によって、対象たる外的他者を観察していると考えられるのである。当然、これは、否定的観察眼である。外的他者に投影した連続的同一性自己を観察することになるのだと思う。つまり、他者とは地獄とであるという比喩的意識は、自己連続的同一性の自我意識の倒錯であると言えるだろう。自我意識がそもそも倒錯的であるのだから、これは、二重の倒錯となるだろう。
 
 ということで、外的他者の連続的同一性とは、自己内における内的他者を否定した連続的同一性認識の投影であることが確認できたであろう。

 では、問題は、内的他者の連続的同一性があるのかどうかである。内的他者とは、有り体に言えば、身体である。それも、内的身体である。すなわち、内的他者=内的身体である。だから、その連続的同一性があるのか否かである。
 
 直観で考えよう。内的他者=内的身体(以下、内的他者・身体)は、確かに、ある種の同一性志向をもつだろう。たとえば、木を見ているとしよう。それに対して、内的他者・身体は、木と一体化するのではないだろうか。「わたし」は、木である、と意識するのではないだろうか。あるいは、鳥を見て、「わたし」は鳥であると、意識するのではないだろうか。

 この内的他者・身体の同一性と自己の連続的同一性は異なるだろう。後者は、あくまで、他者を否定して、自己同一性化するのであるから。それに対して、前者は、いわば、自己を否定するようにして、他者と同一性化するのであるから。そうすると、やはり、内的他者・身体の連続的同一性があることになるだろう。

 そうすると、最初の考えに戻ることになる。一応、そういうこととしよう。

 問題は、そうしたとき、結果は、⇒-1となるが、様相・様態が異なっていることである。自己の連続的同一性は、自我を形成するが、内的他者・身体の連続的同一性は、言わば、他我を形成するのではないだろうか。i→(-i)が自我形式であり、i←(-i)が他我形式と言えるのではないだろうか。

 さらに内的他者・身体の連続的同一性の様態について考察してみよう。直観では、ここには、いわゆる、コスモス的一体性が喚起されるのである。神秘主義的意識である。これをどう考えるのかである。先に、身体的霊性ということを言ったが、それに通ずるものがここにはあるだろう。

 自己の連一性と内的他者・身体の連一性は、結果は、-1で等価であるが、どうも様態が決定的に異なっていると思えるのである。やはり、iと-iとは非対称なのではないのか。自己内において、自己と他者があるが、当然、論理的に、他者とは自己ではないものである。だから、自己のもつ連一性と他者の連一性とは異なるはずである。

 いったい、他者の連続的同一性とは何だろうか。これは、正に、他者自体になることではないのか。これは、これで、倒錯である。自己否定であるからである。自己喪失であるからである。しかし、この自己喪失には、自己連続的同一性にはない何かがあると思う。一種、カオスモス的意識があるように思えるのである。即ち、超越性に触れているような様態があるように思えるのである。そう、いわば、宗教的感情に近いものがあると思うのである。これをどう見るのか。

 そう、内的他者・身体とは何か、ということになるだろう。自己・心的主体性とは知的認識主体性である。それは、言語を形成して、感覚的知覚認識を行うのである。それに対して、内的他者・身体は、そのような知的認識性をもたない。直観では、ここには、ゼロ・ポイント、原点、如来蔵があるように思えるのである。

 これが、自己と他者との違いではないだろうか。自己には、言語的合理主義があるが、他者には、原点的即非認識の可能性があるのではないだろうか。

 これは、身体、とりわけ、内的身体とは何か、という問題になるだろう。直観では、内的身体とはイデア界を内在しているのである。つまり、内在的超越性の空間、「場所」である。あるいは、原点である。原点としての内的身体である。そして、ここから、自己の連続的同一性が発生するのである。つまり、身体こそ、根元・基盤であり、ここから、自己の連一性が発生するのである、と思われるのである。

 ゼロ・ポイント(0, 0)としての身体である。即ち、i*(-i)の現象的顕現の空間としての身体である。そうすると、心であるiは、身体の内包されていることになるだろう。つまり、身体内部において、心iが存在するのであり、これが、内的他者-iともともと関係しているのである。そのように見ると、-i=i*(-i)となってしまう。この齟齬を解決しないといけない。

 思うに、自己iが連続的同一性・自我化すると、内的他者-iが否定され、即ち、自己iと内的他者-iが分離する。主客二元論の開始である。しかしながら、本来、自己iと内的他者-iを即非的一如、即非的一体である。

 問題は、連続的同一性の意味である。内的身体から自己的連続的同一性が立ち上がるのである。このとき、自己iは、内的他者-iを分離するのである。そして、主客二元論の基礎を形成するのである。

 ということは、連続的同一性の志向とは、自己に限定されているものであり、内的他者には、本来、そのような作用はないのではないだろうか、と思えるのである。

 つまり、内的他者-iにおいては、連続的同一性は積極・能動的には不在であり、ただ、自己の連続的同一性の投影として、内的他者の連続的同一性が形成されると思えるのである。

 そう考えると、二転三転することになり、他者の連一性志向性は否定されることになるのであるし、また、他者と身体との考え方を変更する必要があるのである。

 そう、内的他者・身体とは、本来、原点の即非性(如来蔵)を内包しているのである。それは、いわば、前意識・無意識である。この「闇」=原光から、自己の連続的同一性の「光」が発生するのである。この「光」は、-1である。i*-(-i)⇒-1なのである。

 そして、-iは、もともと、i*(-i)における-iであり、即非様相なのである。以上で私が他者の一如性・コスモス性と言ったは、この即非様相の反映であると言えるだろう。だから、他者自体による連一性は存在しないことになる。自己の連一性の投影としての他者の連一性の幻像・妄像は生起するだろうが。

 以上のように考えると、父権神話やニーチェ/ロレンス哲学・思想の意味が明快になるだろう。

 即ち、父権神話では、本来、女神である母神が、怪物(例えば、フンババ)として表象されて、英雄神がそれを征伐して、それを二分化して、天地創造を行うが、女神・母神に相当するのが、身体・内的身体である。そして、それを二分化(二元論化)する英雄神(男性神)が、自己の連続的同一性=自我である。これが、主客二元論を発生されるのである。身体が邪悪視されて、二元論的知識が肯定されるのである。

 また、ニーチェ/ロレンスであるが、彼らは、身体・大地を肯定したが、これは、正に、女神・母神の身体、即非身体の肯定と言えよう。彼らは、現代の新母権制を提示しているのでもある。また、永遠回帰やコスモスは、当然、超越界=超越的差異共振界=イデア界を指していると考えられるのである。

 以上のように考えると、東洋的身体論はまったく正鵠を射ているだろう。身体とは内在的超越性の空間なのである。

 さて、では、やや飛躍するが、カントの純粋理性は、どういう位置にあるのだろうか。

 超越論的形式は、自己の連続的同一性構造と考えていいだろう。(時空間が主観的形式であるという点は後で考察。)では、純粋理性はどうだろうか。

 思うに、カントの悟性は、連続的同一性の形式であり、純粋理性は、実は、身体・内的身体の様相を知性化したもののように思えるのである。身体の様相は、即非様相であるから、当然、同一性の論理では、矛盾が発生せざるを得ないのである。それが、アンチノミーの意味ではないのか。カントの純粋理性は、本来、身体の内在的超越性、超越的即非性を対象化していたのであるが、同一性の論理に囚われていたのである。それを差異即非の論理として展開できなかったと言えるだろう。
 
 換言すると、カントの純粋理性批判は、身体の即非論理に対する同一性論理を基準とする規定と言えるだろう。後に、ウスペンスキーが『ターシャム・オルガヌム』で、即非論理とほぼ等しい第3の論理学を提起して、カント哲学の乗り越えを行ったのである。

 このように考えると、鈴木大拙の般若即非の論理学の意味が明瞭になるだろう。これは、至高の大乗仏教の内在超越的差異共振シナジーの論理表現なのである。そして、PS理論は、これを現代化・総合化したものである。以前、不連続的差異論を最勝超至高と呼んだが、超最勝超至高のPS理論と呼ばなくてはならないだろう。

2007年01月07日

現象、物質、連続的同一性、認識とは何か:連続的同一性と差異的同一性:内超的差異=複素数存在

現象、物質、連続的同一性、認識とは何か:連続的同一性と差異的同一性:内超的差異
=複素数存在

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

ここで、基本概念について整理したい。
 主体→他者の→は連続的同一性志向性を意味する。そして、それは、主体による他者の同一性化である。そして、これは、自我を形成する(議論を簡明にするために、近代的自我をここに含めておく)。他者Xは、主体Aによって言語等を介して、連続的同一性化される。例えば、他者Xは、「木」となる。言語「木」を介して、主体Aと他者Xは、連続的同一性化しているのである。このとき、主体Aの差異、他者Xの差異は否定されているのである。つまり、本来は、他者Xは差異的同一性であり、主体Aも差異的同一性であるのであるにもかかわらず。ここでは、A= A、X=X、A≠Xが成立しているのである。連続的同一性論理があるのである。これは、自己認識方程式では、-{i*(-i)}⇒−1であろう。
 では、問題は、現象化とは何かと再考しよう。これまで、現象化を、連続的同一性化と同一視してきた。そうすると、主体・心と他者・身体との連続的同一性化が、現象化であり、同時に、自我化である。
 ここで問題は、既述したように、2つの連続的同一性化が生起することである。即ち、主体→他者と主体←他者である。これは、結果は、両者、⇒−1となり、同値である。しかし、意味するものは異なる。前者は、心的連続的同一性であり、後者は身体的連続的同一性である。(以下、連続的同一性を簡略化して、連一性と呼びたい。)
 心的連一性と身体的連一性とは、何だろうか。これは、明らかに、二元論であり、二項対立である。シーソーである。優劣コンプレックスである。しかし、事象に即して、考えたい(即事ないし即事性と言おう)。即事的に言うと、心的連一性は、自我形成であり、身体的連一性は物質的身体の形成であろう。つまり、自我と物質身体との二元論・二項対立が成立するということである。結局、現象化=連続的同一性化とは、自我/物質身体の二元論的形成であるということになるだろう。ここで、自我を知覚・認識としてもいいだろう。自我/物質身体は知覚(認識)/物質身体となり、これは、人間を含めた動物の現象様態を説明するだろう。
 さらに、知覚(認識)を広義の感覚とすれば、即ち、感覚/物質身体とすれば、植物も含めることができるし、さらには、鉱物・無機物も含めることができるだろう。これで、現象化=連続的同一性化が感覚/物質身体の二元論化であることになった。これは、作業仮説・思考実験である。
 とまれ、ここで、アインシュタインの公式E=mc^2を適用すると、このエネルギーEは、連一性のエネルギーであると見ることが可能であろう。思うに、心的連一性エネルギーを+エネルギーとすると、身体的連一性エネルギーは−エネルギーとなるだろう。あるいは、逆でもかまわない。ここで、思考実験だが、+エネルギーを通常のエネルギーとすれば、−エネルギーはダークエネルギーと関係するのではないだろうか。(先の考察からすると、神秘主義的エネルギーとなるだろう。闇のエネルギーである。思うに、近代主義は、光と闇の二元論であり、近代合理主義が光であるものの、他方の影として、神秘主義・オカルト主義・霊的世界観をもつということと、これは関係するように思えるのである。小泉/安倍自公政権は、この光/闇路線であると考えられるのである。)
 とまれ、以上から、本件のテーマが説明することができたことになる。単純に言えば、現象化とは二元論的連一化(連続的同一性化)である。そして、これは、森羅万象に当てはまるということになる。
 ここで、差異的同一性について検討しなくてはならない。なぜなら、現象化とは、本来、差異的同一性化であると述べたからであり、以上の結論と齟齬になっているからである。この矛盾をどう見るのか。
 この問題は自然・宇宙の創造力学に関わる問題である。現象化は確かに、連一化であるが、自然は、単に、現象だけではないと考えなくてはならない。つまり、当然ながら、根源には差異ないし差異共振シナジーがあるのであり、その連一化が現象化であるからである。この点の様相を検討しよう。 
 問題は、差異と連一性との関係である。現象化=連一化で感覚/物質が生起するが、ここで生起した現象個体は、確かに、連一的個体(連一体)であるが、しかし、差異的に見ると、差異を否定・排除・隠蔽した様態であるが、この差異は、潜在していると見なくてはならない。つまり、現象個体=連一体において潜在的差異が存するということである。だから、この潜在的差異を含めた現象個体=連一体が差異的同一性であると考えられるだろう。つまり、視点の問題である。単に現象界のみの視点からは、現象化とは、連一体化に過ぎないが、差異的イデア界(差異共振シナジー・即非界・イデア=メディア界)の視点から見ると、現象化とは、差異的同一性化となると言えよう。これを作業仮説・思考実験としておく。
 では、問題は、この潜在的差異の領域の問題である。これは、先に提起しておいたドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」の問題と関わると言えよう。あるいは、ジョルダーノ・ブルーノの一性の問題と。そして、さらに言えば、私が推測する限りのシェリングの自然/精神の対極・相補的同一哲学とも関係するのである。
 しかしながら、この問題は既に考察済みである。これは、内在的超越性の問題なのである。あるいは、虚軸・虚次元と実軸・実空間の関係(ガウス平面座標上の回転)の問題なのである。つまり、潜在的差異とは、内在的超越性(内超性)、虚数的存在なのである。これが、現象界・実次元からは、不可視・不可知になるのである。この内在超越次元(内超次元)に関しては、キルケゴールとフッサールが把捉していたと考えられるのである。【これは、当然、単に、内在性(ドゥルーズ&ガタリ)ではないし、単に、超越性(超越神性)ではない。】思うに、この点を明確に解明し確立したのは、プラトニック・シナジー理論だけと考えているのである。
 結局、潜在的差異とは内超的差異(複素数存在)であり、これが、思うに、ドゥンス・スコトゥスの「存在の一義性」、ジョルダーノ・ブルーノの一性、シェリングの精神/自然の対極的同一性と重なると推察できるのである。これで、本件の考察を終えたい。

2007年01月02日

精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立

精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立

ここでは、主に、本テーマの光について検討したい。
 先の考察(精神と物質 4)から、連続エネルギーが連続的認識と物質化をもたらすと言えるだろう。人間以外の存在は、差異共振シナジー性が未分化(未成熟)であると仮説したのである。
 では、光をどう把捉したらいいだろうか。ここで、一つの作業仮説を立てて思考実験したい。光は、連続化しないという作業仮説である。つまり、光は、差異共振シナジー様相のまま、剥き出しであるということである。つまり、光においては、共振空間、虚次元空間そのままであるということである。つまり、永遠空間のままであるということである。ここには、本来、現象界の連続時空間の尺度は適用できないはずである。しかし、人間の知覚・認識・観測装置は、連続的同一性形式である(カントの超越論的形式)。ここに光を観測するときの根本・原理的矛盾があると言えるだろう。無限速度であるものを、有限連続時空間形式・尺度で観測するとは、完全な齟齬があるのである。これは、結局、結局、唯物科学の問題・限界である。
 とまれ、光の観測に関する脱近代科学(トランス・モダン・サイエンス)の第一歩は、当然、アインシュタインの相対性理論である。光速度一定とは、結局、有限時空連続態の固定枠から見た無限速度の光の速度ではないのか。マイケルソン&モーレーの実験は、エーテルを否定したのである。つまり、連続的媒体の否定である。とりあえず、そういうこととしよう。
 さらに、量子力学になるとこのことがさらに明瞭になると考えられるのである。光は差異共振シナジー様相ないし事象である(作業仮説)。ここには、差異とその零度共振シナジーが成立しているのである。それを、連続的時空間的に観測すると、粒子と波動の二重性をもつということになるのである。あるいは、両者の相補性を説くのである。また、非局所性が成立するのである。
 粒子について言えば、それは、唯物的アトム主義から発生していると言えるだろう。そして、波動は、粒子の振動ということで考えているのだろう。つまり、唯物科学観に拠るのである。しかるに、差異共振シナジー様相が量子の真相であると作業仮説から敷延できるのである。ここは、きわめて重要なポイントで、両者を絶対に混同してはならないことをいくら強調しても強調し過ぎることはないだろう。差異共振シナジー様相とはイデア様相であり、量子とは、それを物質科学から観測した像、連続的同一性像に過ぎないということである。
 ということで、差異共振シナジー様相i*(-i)における差異を物質化して、粒子ないし微粒子としているのであり、シナジー様相を物質化して、波動として観測していると考えられるのである。しかし、差異共振シナジー様相であるから、差異とシナジー相は分離できないない不可分なものなのである。即非態である。相補性とは、この即非態を物質科学的に説明する概念であると言えるだろう。また、非局所性であるが、それは、当然ながら、差異共振シナジー様相の無限空間を指していると考えられるのである。
 以上簡単であるが、ポスト唯物科学、ポスト相対性理論、ポスト量子力学、トランス・モダン・サイエンスとして、プラトニック・シナジー・サイエンスPlatonic Synergy Scienceが成立すると考えられるのである。
 そう、私が先に、心眼で捉えた光は、即非態であると言ったが、それが、この論考により、解明されたと言えよう。光は、即非態・即非相として剥き出しであるということである。太陽光即お天道様即大日如来即阿弥陀如来即天照即アポロ即アフラ・マズダである。
 では、ニーチェが唱えたディオニュソスとアポロとはどう捉えたらいいのだろうか。そう、同じものであろう。差異共振シナジーによる差異的同一性がアポロで、シナジー様態がディオニュソスだろう。そして、これは、両者でコスモスである。そう、D.H.ロレンス等、多くの作家、芸術家、詩人が説いたコスモスとは、このアポロ且つディオニュソスとしての差異共振シナジー様相のことであろう。光の「浄土」である。古代人、中世人、ルネサンス人等は、まったく正しかったのである。近代人が狂っているのである。

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精神と物質 4:光、認識、現象・物質化とは何か

この問題は、プラトニック・シナジー理論の根幹の一つであろう。おそらく、これから、思考実験が何度も繰り返されることだろうが、近代的自我の検討の反復のようなことはないことを望んでいる(おそらく、そんなことはないだろう。近代的自我、近代合理主義の解明は、もっとも難しかったものであると考えられる。)
 先ず、認識と連続的同一性と物質化について整理しよう。私の仮説は、認識即存在である。志向性が存在を形成するというものである。これは、フッサール現象学の中に、ハイデガーの存在論を包摂させていると言えるだろう。
 だから、連続的同一性志向性は、連続的現象・存在の形成である。この連続現象体は、当然、心身をもっている。つまり、知覚をもち、身体をもっている。これは、当然、人間だけでなく、動物・植物にも当てはまるし、また、奇妙に、怪しく感じられるかもしれないが、鉱物・無機物にも、当てはまると思える。つまり、鉱物・無機物にも、なんらかの知覚と身体を想定するのである。(これについては、別のところで検討したい。)
 シロクマは、シロクマの知覚をもち、身体をもっているし、スズメは、スズメのそれらをもっている。これは、異論がないだろう。これらの知覚/身体は、連続的知覚/身体と呼ぶことができるだろう。
 問題は、即非態とこの連続的知覚/身体との関係である。これまで、人間以外の動物・植物(・鉱物)には、即非態・差異共振シナジー態DRSを認めなかったが、ここで、考え直したい。一般的に、動物には、「母性本能」が強いと言えるだろうし、正しくは、言わば、「親(おや)性本能」・「母父性本能?」が強いのだろう。これをどう見るかである。これは、差異共振シナジー動態ではないのか。今、言えることは、それは、差異共振シナジー動態に何らかの関係をもっているということであろう。しかし、そのものとは言えないだろう。何故なら、差異共振シナジー様相とは、認識、自己認識を意味するからである。動物には、自己認識はなく、ただ、本能として、差異共振シナジー様相に似た結果が発現するということのように思えるのである。そう、思うに、動物の場合は、差異共振シナジー様相まではいかなくて、主客と他者とが未分化のように考えられるのである。猫は、主客と他者とが未分化であると思うのである。だから、動物には、差異共振シナジー様相は存在しないと考えることができるだろう。ただ、未分化的な相関的な様相はあるとは言えるのである。(思うに、ペットを飼うというのは、疑似差異共振シナジー様態を味わっているのではないだろうか。)
 では、この未分化な主客連続化の様態をどう定式化するのか。内在的連続化の記号を〜とすれば、i~(-i)と記述できるのではないだろうか。暫定的にそうしておきたい。
 では、人間の場合について、本テーマを追求して行こう。問題は、即非態と連続的同一性態との関係構造である。(明瞭にするため、即非態を共振態ないしシナジー態、そして、連続的同一性態を連続態ないし同一性態と呼んでもいいだろう。態の替わりに、相でもいいだろう。共振相・シナジー相、連続相・同一性相である。)
 人間が出生して、現象・物質化するとき、共振相が、連続相に転化する。虚次元・虚軸から実次元・実軸へと変換する。このとき、帰結的には(終局態・エンテレケイア)、連続態・同一性態としての人間が発生する。しかし、実際のところ、共振相が完全に連続相になったのではなくて、生成過程にあると考えられるのである。つまり、連続相への生成過程としての人間整形である。端的に言えば、言語獲得である。つまり、出生後、新生児は、言葉を憶えることになるのである。勿論、それ以前に、身体知覚経験が研ぎ澄まされるのであるが。
 結局、出生後、連続相への生成過程であるから、共振相/連続相の二重構成をもつと言えよう。あるいは、共振相⇒連続相のプロセスである。これは、連続的同一性志向性と呼んだものである。そして、成長し、言語獲得するときに、このプロセスは、共振相を否定して、連続相中心・優勢になると考えられるのである。つまり、主体/他者の関係で言うと、主体が他者を連続化して、他者を支配しようとする傾斜である。そして、これが、自我形成である。そして、この帰結として近代的自我が成立する。
 問題は、この連続相形成過程における共振相の意味合いである。当然、連続相形成過程においては、共振相は、連続エネルギーへと転換している。つまり、共振相潜在態(デュナミス)が連続相現実態(エネルゲイア)へと転換しているのである。だから、共振相自体としては、認識されずに、連続相・同一性相認識・自我認識を形成されると言える。
 では、問題は、共振相は、連続エネルギーへの転換で消滅する、又は、消費されるのかということである。ここで、作業仮説するのであるが、共振相は原則として零度であるから、連続エネルギーをプラスのエネルギーとすると、保存則的には、マイナスのエネルギーが作動するはずである。これは、比喩的には、潮の満ち引きのようなものであろう。つまり、連続相化に対して、脱連続相化のエネルギーが作用すると思われるのである。図式化すれば、
主体→他者、i→-i(→は連続相化)から、主体←他者、i←-iへの「相転移」ではないだろうか。これは、これまで、他者の同一性化と見たが、そうではなくて、共振相への回帰と考えられるのである。(先に、優越/劣等の二項対立について述べたが、それは、連続相化で十分説明がつくだろう。即ち、主体→他者の連続相化とは、他者を同一性化することであり、そこには、他者の力を受容するので、感受性的には、優劣感情が発生すると言えるだろう。)つまり、連続エネルギーのカウンターとして、脱連続・共振エネルギーが発動するのではないかと考えられるのである。これを仮説として、検討を進めよう。
 だから、結局、人間の認識においては、連続相・同一性認識と共振相・差異認識が併存することになると言えよう。そう、より正しく言えば、自然発生的には、両者が未分化として、あるいは、連続態として、併存している、ないし、混合していると考えられるのである。なぜ、未分化・連続態かと言うと、脱連続・共振エネルギー(差異エネルギー)とは、連続相・同一性認識の内に、内部に、発生するからだと考えられるのである。ここは、正に、不連続的差異論のブレークスルーの領域である。連続相・同一性相認識において、脱連続・共振相・差異認識が発生するので、両者が、未分化・連続化しているのである。言い換えると、両者が弁証法関係・否定関係にあるのである。そして、フランスのポスト・モダン、乃至、ポスト構造主義とは、この両者の未分化・連続態から脱出できなかったと言えるのである(後期デリダは除く)。つまり、差異の連続化、連続的差異=微分をここに仮説してしまうのである。また、大澤真幸氏のアイロニカルな没入もこの未分化・連続態で説明がつくのである。ここにあるのは、反動形式なのである。連続・同一性相という構造の彼岸は、差異ではなくて、未分化・混淆界であったのである。即ち、メディア/現象境界である。これが、ポスト・モダンの領域なのである。
 さて、ということで、脱連続・共振エネルギーが発動するが、それが、連続相・同一性相認識と未分化・連続態を形成するというポスト・モダンの様相を確認した。ここで、先に進む前に、近代的自我の反動様態について触れておくと、それは、ポスト・モダン様態になったときの反動態であると考えられるのである。連続相・同一性相・自我認識が中心化して、脱連続・共振エネルギーを否定・排除・隠蔽するのである。これは、暴力且つ狂気なのである。精神病化である。今日の自己愛性人格障害は、これで説明がつくだろうし、また、パラノイア化や統合失調症(「精神分裂症」)もこれで、おおよそ、説明がつくだろう。
 ここで、不連続的差異論のブレークスルーに関係するが、それは、以上の未分化・連続態を切断して、共振エネルギーを不連続化し、独立させたのである。連続相・同一性相とは不連続な、差異共振シナジー様相、差異共振シナジー相認識、即非認識、共振認識を確認したのである。これはどういう力学なのだろうか。完全な脱連続化である。そう、内在的超越化である。虚次元・虚空間化である。そして、それを明日野氏は、卓越的に、i*(-i)⇒+1と簡潔簡明に数式化したのである。これは、差異的同一性の公式とも言えるのである。そして、これこそ、差異共振シナジー様相と連続的同一性様態との共生・棲み分けである。ここには、差異共振シナジー的合理性、連続的同一性合理性の共創・共存があるのである。共生・共立である。簡単に言えば、差異理性と同一性理性との不連続な共立である。(カントは、この内在的超越的差異理性を捉えることができずに、物自体としたと言えよう。あるいは、実践理性としたのである。フッサールはこれを志向性や間主観性として把捉したと言えよう。)
 では、これはいったい何を意味するのか。零度への回帰、永遠回帰、内在的超越界への回帰とは何を意味するのか。結果的には、連続化の終焉である。自我、近代的自我の終焉である。近代合理主義の終焉である。モダンの終焉である。ポスト・モダンの超克でもあるトランス・モダンの開始である。人類のリセットである。これまで、宗教や神秘主義の領域であったものが、合理化されたのである。というか、宗教や神秘主義の純粋化と言ってもいいのである。これまで、それらは、連続態によって、反動化していたのであるから、プラトニック・シナジー理論によって、純粋化したのである。超宗教・超神秘主義でもあるのである。(これは、諸宗教の反動暴力性を解除して、共生的宗教へと変容させると考えられるのである。)
 そう、これは、やはり、一つのサイクルの終焉と見るべきではないのか。即非態から連続エネルギーが発生して、また、脱連続エネルギーが発生する。その終局が、零度への回帰である。私は、これをずっと西洋文明の終焉と見ているのである。あるいは、一神教・父権的文明の終焉と見ているのである。そういうことだと思う。エネルギー力学からそう言えると思うのである。
 さて、序論的部分を含み説明が長くなったので、本テーマの一つの光については別稿で論じたい。

2006年12月25日

「暗殺リスト」:末世と神のヴィジョン・エネルギーの交替

フィクションで、私の「暗殺リスト」があるが、その中には、たくさんの人間が入ることになる。否、人間だけでなく、神も入る。この世、この人間界を造った神は暗殺するに値するだろう。狂気のリア王が、恩知らずの娘を生んだ自然の鋳型を破壊してしまえ、絶叫するが、その破壊的衝動は、理解できるものである。愚劣な人間を造った神は破壊するに値するだろう。
 とまれ、この思想は、まったく新しくなく、グノーシス主義である。それは、この世を邪悪な神が造ったと考えたのである。グノーシス主義が発生するときは、当然ながら、末世、「カリ・ユガ」である。思えば、聖書にも、創世記にも、邪悪な人間を滅ぼすために、大洪水を起こしたという有名なノアの箱船の話がある。人間が駄目になるのは、神の原因というよりは、原点にあった内的ヴィジョンが衰えるためであろう。内的ヴィジョンとは、エネルギーをもつヴィジョンであるから、創造的である。だから、内的創造エネルゲイア・ヴィジョンである。しかし、このエネルギーは、単に物質エネルギーではなくて、イデア的エネルギーである。造語して、イデルゲイア、イデルジー等を考えよう。もっとも、メディア的エネルギーだから、メデルゲイア、メデルジーでもいい。
 とまれ、この根源的ヴィジョネルギー(ヴィジョン+エネルギー)の喪失が、末世、「カリ・ユガ」を生むと言えるだろう。つまり、これは、神のエネルギーの新陳代謝の問題のように思える。最初は、神のエネルギーは新鮮であり、人間は、その神的ヴィジョンに基づいて、社会・文化等を構築したと考えられる。しかし、この神のエネルギーが衰えるにつれて、社会は堕落し、腐敗するのである。思うに、その末世において、新たな神のエネルギーが発すると言えるだろう。おそらく、ここには、力学があるのである。神のエネルギー力学があるのである。神のダイナミクスである。今日、世界、日本を見ると、これまで、文明を形成した根源的ヴィジョンが衰退・老衰して、カオスとなっている。新しいヴィジョン、新しい神的ヴィジョンが必要なのである。
 もっとも、力学であるから、科学的に説明できなくてはならない。神的科学、神のサイエンスである。これに関しては、これまで、論じてきたが、簡単に言えば、西洋文明の神のヴィジョンが衰退したということだろう。つまり、キリスト教の神のヴィジョンがもう、衰退したということである。というか、とっくに衰退したのである。キリスト教の理性と古代ギリシアの理性が結合して、近代理性が生まれた。しかし、近代理性は、近代合理主義となり、いったんは、薔薇色の未来を約束したが、今日、不信の状態となっているのである。
 理論的には、プラトニック・シナジー理論が明らかにしたように、東西文明は、統一されるのである。西洋は、内在的に否定された東洋を求めてきたし、東洋は、近代西洋文明への不信から、東西超克を希求してきて、東西が一致したのである。
 西洋文明の原理である二項対立・優劣二元論は、連続的同一性の原理であり、それは、差異を徹底的に排除するものである。この差異否定のヴィジョンが西洋文明の原動力であったと言えよう。それは、一神教のヴィジョンである。唯一の神以外の神(差異、他者)は認められないという発想である。この一神教ヴィジョンが、今日、行き詰まり、衰退したのである。
 この連続的同一性の原理であるが、それは、思うに、不連続的差異論で言うメディア界の必然性によって発生すると、今、私は考えているのである。即ち、メディア界は、本来、差異共振シナジー様態であるが、それが、内界から外界へと志向すると考えられるのである。喩えて言えば、種子の中の胚芽が、外部へと展開・発展する様態を考えるといいだろう。英語で言えば、inからoutへの転化である。メディア界が内部であるとすれば、それが、外部化するのが、連続的同一性化である。そして、これは、そのまま、現象化であると考えられるのである。つまり、今の時点では、連続的同一性化=現象化である。しかしながら、要注意なのは、この内部から外部という現象化事象は、単に同一次元で生起するのではないということである。この点が、おそらく、最高最大に注意すべきポイントである。つまり、内部から外部への転化とは、次元変換でもあるということである。プラトニック・シナジー理論は、これが、虚軸から実軸への転換であると明らかにしたのである。虚数から実数への変換なのである。虚次元から実次元への変換なのである。これを、私は、内在超越性という視点で述べているのである。一番、分かり易いのは、ガウス平面で、実軸と虚軸の直交座標を考えることである。だから、精緻に言うならば、内部は、超越的内部、超越的内界ということになるだろう。
 だから、連続的同一性化とは、超越的内界から時空間的外界への転化ということになるだろう。この時のエネルギーが、つまり、連続的同一性のエネルギーが、現象界の物質エネルギーではないだろうか。先の考察から言えば、否定的志向性である。⇒(-)である。これは、差異・他者を否定するエネルギーである。そして、心身二元論が生起するのである。心と身体の二元論である。そして、一神教、ユダヤ/キリスト教(イスラム教の一部)は、この現象化の終局と言えるだろう。
 ところで、遺伝子とは、この連続的同一性の多種多様な原型のことではないだろうか。これは、巨視的に見れば、生物に限らないだろう。鉱物の原型があるのであり、それも鉱物の遺伝子と言えると思うのである。結局、形相の問題である。形質も形相に入るだろう。つまり、超越的内界に、「遺伝子」・原型・形相があるのであり、それが、否定エネルギーの対発生によって、現象様態化するのではないだろうか。つまり、超越的内界における対・連続的同一性エネルギーの発生が現象化を施行するということである。そして、帰結的に一神教が生まれるのである。【では、多神教・自然宗教の発生は、どういうことなのか考える必要があるだろう。多神教は、一神教の発生させる基盤であるように思えるのである。イシス・オシリス神話(神話もかつては、宗教であったと考えられる)から、太陽崇拝が生まれて、ファラオー崇拝が発生したと考えられるのであるし、また、古代オリエントの神話にも、同様なことが確認できるだろう。】
 では、先にも考察したが、脱現象化、差異への回帰、トランス・モダンの力学の発生原因は、どこにあるのかということになるだろう。
 ここでは、連続的同一性・対エネルギーの発生領域である超越的内界空間次元を考えればいいだろう。ここは、零度共振領域である。ここには、零度のエネルギーがあると考えられるのである。この零度のエネルギーが、対の連続的同一性エネルギーへと転化するのであり、これが、言わば、エネルゲイアと言えるだろう。零度のエネルギーとは、デュナミス(可能態)と言えるのではないだろうか。
 さて、発生した連続的同一性の対エネルギーであるが、当然、それは、消耗して、消滅するだろう。そう、現象界に見られる、生成消滅(生死・死生)は、このエネルギーの生成消滅によると言えるのではないだろうか。すると、理論的には、当然、再び、零度に回帰するだろう。このゼロ度回帰が、差異共振シナジー様相の形成を意味するのではないのか。
 思うに、連続的同一性エネルギーが作用とすると、それに対する反作用があるだろう。それが、差異エネルギーではないだろうか。これは、単純な力学ではないだろうか。連続的同一性エネルギーが消費される。すると、否定・排除・隠蔽・抑圧されていて差異のエネルギーが発動するということではないのか。数式で考えよう。
 i*(-i)が超越的内界の差異共振シナジー様相である。そして、i→(-)(-i)⇒−1となる。これが、連続的同一性の現象化である。ここで、*を零度ないし零度差異共振様相と考えると、*が→(-)となるのが、連続的同一性のエネルギーないし否定志向性である。それに対して、当然、反作用的に、→ (+)の動態が発生すると考えられるのではないだろうか。この→(+)は、肯定的志向性、即ち、差異エネルギーであり、結果として、差異共振シナジー事象を形成するのではないか。
 では、もしそうならば、どうして、最初に、→(-)の否定的志向性が発生し、次に、→(+)の肯定志向性が発生するのだろうかという疑問に対する解明が必要である。思うに、これは、内界から外界への転換力学の必然ではないだろうか。内界の様相を否定して、外界が発生するのではないだろうか。i*(-i) という内界の様相に対して、→(-)という否定的志向性が発生して、他者・差異を否定して、連続的同一性の外界・現象・物質が発生するということではないだろうか。内界を否定しなければ、外界である現象は発現しないと考えられるのである。
 では、さらに、どうして、外界・現象化する必要があるのか、ということになる。永遠・無限の世界からどうして、有限の世界に移行する必要があるのかである。というか、有限化の力学の問題である。
 ここで、フッサールの志向性の理論を敷延的に援用して考察しよう。主体から他者への志向性とは、実際は、主体の連続的同一性の投影であるということである。(これが、フッサール現象学の一つの側面である。)結局、志向性においては、他者・差異は、他者・差異自体としては、認識されずに、主体の連続的同一性のおいて認識されるということである(参照・カントの超越論的形式と物自体)。そして、これが、現象化である。そして、自我(無明)の発生である。自然は、思うに、人間を愚者fool(タロット・カードで、ゼロがフールなのは、意味深長である)として創造したことになるのである。知的盲目として人間を創造したのである。(おそらく、これは、他の生物にも言えそうである。ただし、言語を使用している分、人間の方が、さらに愚者・痴愚者である。ホモ・サピエンスという言葉は、恥ずかしいほどの傲りの命名であろう。)
 とまれ、自然的志向性は、連続的同一性の志向性であり、他者・差異は否定されるのである。そう、ここで、有名なプラトンの洞窟の喩えを想起してもいいだろう。洞窟のスクリーンに投影される影像は、連続的同一性としての現象と考えられる。これは、光や視覚の問題でもあろう。とまれ、自然的志向性は、連続的同一性志向性である。だから、初めから、倒錯していることになるだろう。つまり、他者・差異の外界的認識は、倒錯しているのである。自然の、一種、悪意、意地悪さではないだろうか。自然状態(フッサールの自然的態度)では、自然の真相は認識できないのである。それは、いいとしよう。
 では、ここで、先の問題の差異エネルギーの発生について考察しよう。自然的志向性は、結局、連続的同一性エネルギーであり、差異を否定した。しかし、力学的には、差異が反発して、差異のエネルギーが発動するはずである。しかし、問題は、差異は、連続的同一性のエネルギーを帯びるのではないかということである。先には、ソのように考えたが、ここでは、発想を変えて、思考実験したい。
 思うに、超越的内界において、主体と他者が零度共振しているのである。つまり、主体のエネルギーと他者のエネルギーとの均衡が取れて、零度になっているのではないだろうか。しかるに、主体のエネルギーが発動して、現象化が起こる。しかし、そのときは、他者のエネルギーが隠蔽されることになるだろう。しかしながら、主体のエネルギーが消費されれば、当然、隠蔽された他者のエネルギーが発動されるだろう。これが、差異エネルギーではないのか。すると、主体の連続的同一性エネルギーが、連続的同一性構造の形成に機能したとすれば、他者の差異エネルギーは、脱構造エネルギーではないだろうか。主体は、他者の差異エネルギーを受容することで、新たに、差異共振シナジー様相を構築するのではないだろうか。そして、これが、脱近代、トランス・モダンの事象を意味するのではないのか。そう、仏教が初めの脱近代、トランス・モダン理論であろう。そして、ほぼ同時代のプラトン哲学もそうであろう。悟りとは、この差異エネルギーの肯定である。つまり、不連続な差異エネルギーの肯定である。釈迦牟尼やプラトンは、内界に視線を遣ることで、瞑想することで、あるいは、秘儀参入すること(参照:エレウシスの秘儀)で、これを成就したのだろう。
 そうならば、自然は、親切ということになるだろう。最初は、自然は、意地悪であるが、その後は、親切になると言えよう。ただし、自然の事象を正に、自然(じねん)に受け取る必要があるのである。つまり、肯定的に受容する必要があるのである。後にこれを理論化したのは、スピノザであろう。能動的観念とは、この自然の肯定のことであろう。
 では、差異エネルギーとは何なのであろうか。あるいは、どうして、即非性や共感性が発生するのだろうか。思うに、差異エネルギーとは、逆志向性なのではないのか。それで、原点にもどるのではないだろうか。最初、主体は、他者を志向したが、それは、連続的同一性であった。その後、他者のエネルギー、差異エネルギーが発動する。そのとき、他者から主体への志向性がある。これは、主体への回帰である。主体への回帰とは、差異共振シナジー界への回帰ではないか。零度への回帰ではないのか。そう、考えてみれば、差異エネルギー、逆志向性とは、主体にとっては、差異の受容である。連続的同一性を+のエネルギーとすれば、差異は−のエネルギーである。そして、プラスマイナス=零度を帰結するのではないのか。−のエネルギーは、力であり、差異共振シナジーへと主体を駆動させるのはないだろうか。
 いちおう、以上の思考実験を作業仮説して結論すると、自然は、志向性を確かにもつのであるが、それは、初めは、主体から他者への志向性であり、次に、他者から主体への志向性へと交替する力学があるということになる。簡単に言えば、連続化のエネルギーが最初にあり、次に、相補的に、脱連続化のエネルギーが発生して、零度に回帰するということである。
 では、この順番は何を意味するのか。この順番の力学は何か、となる。これは、自然志向性力学としか言い様がないのではないだろうか。連続から脱連続へという自然力学である。しかし、何故、連続化するのか、ということに答えていないだろう。否、答えている。それは、志向性とは、最初が、連続的志向性であるということである。主体から他者への志向性とは、連続的志向性であるということである。

2006年12月03日

ジキル博士/ハイド氏の構造を解明する:光認識の盲目性と仏教という最初期ポスト・モダン哲学

以下の記事を参考にして、ジキル博士/ハイド氏の構造をプラトニック・シナジー理論から解明しよう。ジキル博士の内面とは、-(-i)であるが、この意味は何だろうか。つまり、最初の−の意味である。これは、当然、自己投影の−である。しかし、これは、隠蔽であるから、(-i)自体は存在しているのである。つまり、iである自己と(-i)の他者とが、完全に乖離・分裂しているということであろう。つまり、i/(-i)である(ここで、/は乖離・分離・分裂を意味する)。これが、ジキル博士/ハイド氏の数哲理構造であると言えよう。また、流行の自己愛性人格障害もこれで解明できよう。
 では、精緻に見ると、どこにハイド氏が存するのだろうか。それは、自己投影ないし反差異・連続的同一性であるi→(-i)に存するだろう。つまり、陽意識・認識=+エネルゲイアである。しかし、陰意識・認識=−エネルゲイアが存するはずである。即ち、(-i)→iである。結局、陽意識の−1と陰意識の −1の2つの−1が存するだろう。前者は、押しつけ・暴力である。そして、後者は、影・シャドウであろう。だから、ハイド氏は、後者である。ジキル氏の影・シャドウであるから。すると、前者が押しつけ・暴力であると言ったのを修正しないといけないだろう。確かに、前者は、押しつけ・暴力であるが、それは、作用・能動である。後者の力を取り込めば、対極化されて、自己認識+1が形成される端緒となるだろう。問題は、後者をまったく否定した場合である。
 ここで、精密に見ると、+エネルゲイアと−エネルゲイアは同時発生であると言える。連続的同一性化(陽認識)と他者的同一性化(陰認識)が同時発生するのである。思うに、自己投影とは、この同時発生の事象・様態ではないだろうか。自己即他者である。(思うに、愛とはこのことではないか。)思うに、これは、実に不思議な事象・様態であろう。自己と他者が実際は、乖離・分裂しながら、自己即他者と錯誤されるのであるから。
 とまれ、押しつけ・暴力(いじめ)の問題を考えると、それは、この±エネルゲイアの様態ではないだろうか。より正確に言えば、両者の並存様態であろう。+エネルゲイアの連続的同一性と−エネルゲイアの他者的同一性が並立していると思えるのである。さらに正しく言えば、+エネルゲイアが−エネルゲイアを隠蔽しているのだろう。ここで、視覚的認識の問題があるのである。視覚的認識は、+エネルゲイアの認識であり、−エネルゲイアの他者的同一性の認識に対してブラインドになると考えられるのである。つまり、光認識には、闇認識はできないということである。反差異・連続的同一性認識は、言語観念認識を形成するだろう。ある対象は、「リンゴ」と呼ばれる。これは、リンゴという現象個体、視覚的個体による言語観念認識である。つまり、ここでは、唯名論と実念論は同一である。−エネルゲイアの認識は、いわば、身体的認識、身心的認識を必要とすると考えられるのである。視覚的同一性と身体的同一性の相違があるだろう。視覚空間の「リンゴ」と身体空間の「リンゴ」では異なるのである(ついでに言えば、セザンヌの静物画は、後者を表現・描出しているのだろう)。光と闇、光と影である。光と闇、光と影を併せ持って、真如となると考えられるのであるが、光認識・視覚認識は、闇認識・身体認識を隠蔽してしまうのである。なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると、闇認識・身体認識が看過され、無視され、さらには、無化・否定化・排除化されるのである。これが、近代合理主義・近代的自我の様態である。これが、また、遠近法空間を形成するのである。つまり、三次元空間を形成するのである(時間を加えて、四次元時空間であるが、時間空間が不可視なのである)。
 この排除された身体認識・陰認識・−エネルゲイアであるが、これは、認識されないので、非合理衝動つまり狂気になると考えられるのである。だから、この否定・排除・隠蔽された身体認識が、暴力を狂気的なものにするのである。陽認識は、単に暴力であろうが、否定された陰認識は、非合理衝動・狂気となり、狂気的暴力を反復強迫させるようになると考えられるのである。これが、ハイド氏であろう。悪魔と言ってもいいのである。私が近代的自我は狂気であると言ったことである。そして、自己愛性人格障害も、これで説明ができるだろう。つまり、近代主義の帰結としての精神病理なのである。
 では、ここで、「なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると」と述べたときの、「なんらかの原因・理由」を考えてみよう。これは、既述の事柄であるが、再確認しよう。一つは、私の仮説であるが、男性は、光認識・視覚認識・陽認識に傾斜しているということである。つまり、+エネルゲイアが−エネルゲイアよりも強化されているのが男性であると私は考えるのである。おそらく、これは、奇形と言えるのかもしれない。それに対して、女性は、逆に傾斜しているのではないだろうか。つまり、−エネルゲイアの傾斜が強いということである。一種、性差である。この対極的傾斜のため、男性は、連続的同一性暴力を狂気化するのである。これが、戦争であろう。そして、女性は、他者的同一性暴力を狂気化するのである。これが、ヒステリーやオカルト主義であろう。とまれ、実害としては、当然、前者の方がはるかに巨大である。
 これが一つの原因・理由である。しかし、この性差的傾斜仮説以外を考えると、民族的傾斜仮説が考えられそうである。ここで、想起するのが、ニーチェの有名なアポロ(美術)とディオニュソス(音楽)の区別である。これを借りれば、アポロ的民族とディオニュソス的民族があることになる。そして、古代ギリシア人は、両民族の混淆であると考えられる。そして、これは、文化史的には、インド・ヨーロッパ語族・父権的民族と古ヨーロッパ民族・母権的民族との混淆であると言えるだろう。神話学的には、軍神アレス(マルス)と美神アフロディーテ(ヴィーナス)で代表されるだろう。宗教的には、一神教と多神教であろう。
 ここで、アポロ的とは、古典的芸術を考えるべきである。シンメトリカルな、幾何学的に均整の取れた美学を考えるべきである。古代ギリシアの壺を考えるといいだろう。現象リアリズムである。
 さて、そうすると、アポロ的なもの、即ち、反差異・連続的同一性に傾斜した民族が、光認識・視覚認識を強化したと言えるだろう。これが、二番目に考えられる原因・理由である。
 そして、三つ目は、キリスト教である。光の宗教としてのキリスト教である。本来、この光は、原光としての光であるが、善悪二元論から、闇を激烈に排除する結果、陰認識を排除してしまったのではないだろうか。これは、一神教の問題と言っていいだろう。多神教を否定した一神教は、偶像崇拝、感覚像を否定するのである。これは、身体否定と言っていいだろう。身体と他者と陰認識が結びついているのであるから、当然、陰認識が排除されるのである。つまり、一神教は精神と身体ないし自己と他者という次元において、前者の精神・自己を中心化して、後者を否定・排除するのである。結局、陽認識中心・主導となり、陰認識は否定・排除・隠蔽されるのである。
 ということで、1)性差、2)民族差、3)宗教差の三点を原因・理由としてあげた。さらに考えてみよう。
 思うに、認識の根本問題があると思う。フッサールに倣い、志向性を認識の根源的様相と考えよう。つまり、自己→他者、自己から他者への志向性、これが、根源的認識様相である。問題は、他者である。これは、本来、自己内の他者の認識、つまり、垂直的認識であるが、これが、自己外の他者の認識、つまり、水平的認識に変化するのである。垂直的志向性が初めにあり、次に、水平的志向性があることになる。垂直志向性においては、精神と身体とが一如である。つまり、ここでは、まだ、差異的同一性が保持されているのである。+1があるのである。しかるに、自己外認識、自己外の他者認識、水平認識に移ると、外的他者は、内的他者とは異質なのが認識されるのである。おそらく、最初は、内的他者に対するのと同様に、外的他者にも遇したであろう。つまり、差異共振的関係を投影するだろう。しかるに、外的他者は、それを跳ね返してくるのである。このとき、認識主体は、共感から反感へと転化するのである。このとき、主体の認識は、即非的なものから、主客二元論的なものに変換すると考えられるのである。つまり、主体Aと客体Bにおいて、A≠Bが成立し、A=B且つA≠Bという即非・対極共振関係が消滅するのである。コスモスの消滅である。これが、四つ目の原因・理由であるが、おそらく、これが、いちばん根本・基本的なものであろう。
 さて、では、問題は、外的他者の跳ね返しとそれによる反感化の問題を考えよう。主体は、即非的視線を外的他者に投影するとしよう。しかし、外的他者は、それに対して、反差異・連続的同一性の視線や言動を返すのである。これは、何か。思うに、原始時代、太古、人類は、狩猟採集生活において、動物を狩るが、基本は、差異共振シナジーがあるから、殺した動物を祭るだろう。これが、例えば、アイヌのイオマンテに儀礼に残ったものであろう。人類と動物ないし生物は同類なのである。熊=人である。
 しかし、この差異共振シナジー社会が崩壊するときがくる。それは、反差異・連続的同一性=自我の社会が到来するときである。簡単に言えば、国家社会の誕生であろう。それ以前の部族社会では、部族長中心の「王権社会」であり、国家はないだろう。自我の誕生が国家の誕生と通じるだろう。これは、文化史的には、父権主義の誕生である。神話学的には、父権神話、龍退治をもつ神話である。この点では、ユング心理学が詳しいだろう。龍とは、差異共振シナジー様相と考えられるのである。これを、排除するのが父権神話であり、父権主義・国家であると考えられよう。
 では、これは何を意味するのか。外的他者の乖離的対象化であろう。これは、当然、内的な他者との乖離でもあるだろう。つまり、主体内部には、本来、差異共振シナジー性が存するのであるが、それを否定するようにして、外的対象を自己から乖離するのであるから。つまり、精神と身体との乖離である。心身二元論の形成である。
 さらに突き詰めると、主客分離とは何なのか。ここで、もう一度、原点に返ろう。志向性である。陽の志向性である。自己→他者である。i→(-i)である。これは、光の志向性である。光認識である。視覚認識である。それに対して、(-i)→iは、闇の志向性、闇認識である。身体認識である。光認識とは、自己投影である。つまり、反差異・連続的同一性認識である。これは、内的世界ではなく、外的世界の認識である。そう、内的世界から外的世界へと認識が向かったときが、光認識であろう。このとき当然、闇認識は隠れるのである。排除されるのである。身体認識は排除されるのである。これが、発達すると、自我拡大であり、傲慢・自己盲目である。ヒュブリスである。おそらく、聖書に出て来る悪魔のルシファー(ラテン語では、原義は光を帯びたもの)は、これを意味するように思われるのである。
 すると、問題は、外的認識にあると言えよう。視覚認識である。しかし、私は、二つの視覚認識があると考える。外的視覚認識と内的視覚認識である。私がヴィジョンと呼ぶのは、当然、後者である。また、イマジネーションや直観と言うのも、後者である。だから、ここで、問題になっているのは、外的視覚認識である。陽認識である。おそらく、内から外へと転換するときに、精神位相が変換するのである。垂直から水平変換するときに位相が変化するのである。つまり、思うに、差異共振位相から反差異・連続的同一性位相へと変換するのである。おそらく、初めは、差異共振的に外界認識するはずであるが、これが、反差異的になるのである。何故だろうか。ここに光や現象の意味の問題があるだろう。原光は、差異共振シナジー事象であるが、これが、光現象となるときは、反差異的になると思えるのである。つまり、i→(-i)が光現象だと思えるのである。つまり、連続的同一性化が光現象だと思えるのである。そして、光認識は、当然、反差異・連続的同一性認識であると考えられるのである。闇認識、身体認識がなければ、原光の差異共振シナジー認識は形成されないだろう。(内省・瞑想や禅やヨガ等は、この闇認識、身体認識の形成方法であろう。正確に言えば、陽認識と闇認識の均衡認識形成であろう。)
 ということで、志向性の帰結(エンテレケイア・終局態)として、反差異・連続的同一性認識・現象が生起すると考えられるのである。それに対して、東洋哲学は、これを解体する認識を初期から形成したのである。闇認識・身体認識の形成方法を形成したのである。とりわけ、仏教哲学である。これは、どういうことだろうか。どうして、東洋・アジアは、光認識に対する闇認識を形成できたのだろうか。ここに仏陀の大天才・超天才性があると言えよう。彼は、目を内化したのである。志向性を再び、内的に変えたのである。回帰である。そして、調和を取ったのである。(仏陀は、人類最初のポスト・モダン哲学を説いた人物とも言えるだろう。)どうして、これが可能になったのだろうか。必然的に人間認識は、反差異・連続的同一性認識となり、差異・他者を排除するようになるのである。無明である。どうやって、闇認識に気がつくのか。(-i)→iの−エネルゲイアは常にあるのであるが。悟りはどうやってやってくるのか。そう、仏陀の内面には、おそらく、差異共振シナジーのエネルゲイアが潜在していたはずである。それが、外的現象を見て、苦しんだはずである。苦界の現世を見たのである。病苦する人間界を見て、仏陀は差異共振化したのである。深い、本質的な苦に仏陀は囚われたのである。そして、座禅して、瞑想して、解脱し、開悟・悟達したのである。空認識である。それは、差異共振界の認識である。自我の執着、つまり、連続性からの脱却にこそ、救いがあったのである。
 これはどういうことなのだろうか。瞑想によって、外的視覚認識を断ち、内的認識、身体認識へと仏陀は向かったと言えよう。フッサール的に言えば、現象学的還元によって、志向性という空を発見したのだろう。色即是空・空即是色とは、正に、i*(-i)⇒+1であろう。つまり、仏陀は、外的視覚認識を断ち、それによって闇認識、−エネルゲイアを把捉したのであると考えられる。おそらく、魔境がやってくるのである。闇認識は、過剰になると−1となり、邪道・魔道となるのである。つまり、(-i)→iは、自己を否定して、他者的同一性になるのである。(どうも、イエス・キリストは、このような様相に思えるが。)悪魔の誘惑がこれであろう。(オウム真理教や新興宗教の問題もこれであろう。)つまり、闇認識に没入した場合、自己が喪失されて、他者に帰依するのである。しかし、自己は隠蔽されるのであり、連続的同一性である自我は残るのである。やはり、−1の位相である。
 仏陀の反転によって、自己認識方法が誕生したのである。ここで、簡単に整理すると、光認識は、闇を排除するので、反差異・連続的同一性認識となるということである。つまり、必然的に、人間の認識は、光認識に達するので、闇認識を喪失する必然性があると考えられるということである。光の盲点、光の闇があるのである。つまり、光とはヴェールであり、闇を覆って、闇を見えなくさせているのである。ヴェールされた現象veiled phenomenaなのである。(参照:unveiled Isis。イシスは、やはり、差異共振シナジー事象、即ち、原光・玄光である。)光は人間を盲(めしい)にするのである。正に、無明である。無知である。これは、たいへんなアイロニー、パラドックスである。根源的転倒・倒錯性である。これで、本件の解明が済んだとしよう。
 さて、ここで、人類文明のことを考えると、おそらく、かつては、差異共振シナジー文明が普遍的であったに違いない。しかし、あるとき、陽認識・光認識に傾斜する事態となり、バランスが崩れたのである。しかし、人類は、天才たちが、叡知を形成して、差異共振シナジー位相を保持することを説いてきたのであり、仏陀に至っては、座禅・瞑想という身体的方法を発見したのである。(もっとも、これはヨガの発展と言えるだろう。)しかし、西洋文明は、この叡知を破壊する形で、光認識中心の近代主義を形成したのである。つまり、悪魔的文明を形成したのである。これは、人類史における驚天動地の事態である。人類絶滅の危機である。この原因は以上で述べたことの綜合で説明がつくだろう。大危機・超危機である。そして、東西の偉大な天才たちが、この人類の最大の危機(と言っていいだろう)に対して、「処方箋」を提示してきたのである。そして、20世紀後半にポスト・モダンが生起する。これは、光認識の解体であり、西洋文明の乗り越えを意図したものであるが、連続性の観念が強固であり、きわめて、不十分なものであった。この点は既述済みなのでここでは詳論しない。しかし、この不備を乗り越えて、不連続的差異論が生まれ、そして、それの進展であるプラトニック・シナジー理論が創造されて、ポスト・モダン、つまりポスト・オクシデント(ポスト西洋文明)の理論が真に結実したのである。これは、超東西文明の理論であり、新世界文明の理論となると考えられるのである。新ヘレニズムの理論と言ってもいいだろう。人類文明の、いわば、鬼っ子である西洋文明を乗り越える理論がようやく誕生・創造されたのである。確かに、一つの人類史の終焉である。新たな人類史が始まるのである。新コスモス人類史が始まるのである。
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■今の日本はハイド氏に変身したジキル博士のような世界



かの有名なスティーブンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』のハイド氏のように、夜になると抑圧された無意識が悪の化身に変身して、色と欲を楽しみ、結果的に殺人等の邪悪な事件を起こしてしまう。この小説は、人間の「こころ」の仕組みを見事に描いている。社会生活で人格者であっても、潜在意識の奥深くで、「無意識」が奇妙で邪悪な欲望を隠し持っていたりする。屋外を散歩すると、私たちの身体に張り付くように「影」ができているが、日常に於いて私たちはそのことをほとんど意識していない。



私たちは、日の当たる都合のいい自分の姿だけを自分だと思い、当然のごとく自分を良い人間だと信じて疑わない。自分の影の部分、認めたくない欠点やコンプレックスは抑圧されて、「無意識」という影の部分に追いやってしまっている。その結果として、日の当たる意識の部分には上ってこなくなってしまう。もちろんこれらの邪悪なよからぬものが、「無意識」のまま抑圧され続けている限り問題はない。



私たち人間の「こころ」が、いつも健全であり続けるには、邪悪な「無意識」を抑圧し続けるための強い意志が必要となってくる。この意志のパワーが鍛えられていないと、ある日突然、このよからぬものが意識に昇ってきて、私たちの「こころ」を乗っ取ってしまう。「こころ」を乗っ取られてしまった私たちは、突然人が変わったように道徳やルールをどんどん無視して、社会のタブーである犯罪や殺人を犯すようになり、精神的な荒廃化現象が一気に表面化する流れになってしまう。

http://www.chibalab.com/news_otoshiana/documents/060810.htm

2006年11月26日

近代的自我の発生の原因とルネサンス:自己認識方程式の視点から テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義

明日野氏の卓越した一人称自己認識方程式e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1をまず前提として確認しておこう。(これ以前は、(i)*(-i)⇒+1である。)
 私の問題にしたいのは、i-i=0のところである。これは、差零度共振を意味すると考えられる。そして、これは、自己e^iと他者e^(-i)を知る本来の自己認識である。
 私の考えは、e^i⇒e^(-i)の陽意識と逆のe^(-i)⇒e^iの陰意識があるというものである。簡単に言えば、自己⇒他者、他者⇒自己である。そして、前者、陽意識(+エネルゲイア)は、光と関係する。例えば、遠近法がこれに当たるだろう。しかし、後者、陰意識(−エネルゲイア)は、闇と関係する。簡単に言えば、前者は、普通の意識であり、後者は、言わば、無意識である。そう、明意識と暗意識と言ってもいい。
 ここで、e^i⇒e^ (-i)を単純化して、i⇒-iとし、また、e^(-i)⇒e^iを、-i⇒iとして考えることにする。i⇒-iの解釈であるが、これは、他者への志向性でもあるが、ここで、知覚が生じて、何らかの言語を-iに与えると思うのである。(太古においては、言語ではなくて、絵文字のようなもの、音声言語のようなものを与えていたであろう。)思うに、言語を他者に与えて、同一性化するのである。ここで作業仮説として、言語=−1とすれば、i⇒−1・(-i)=i となるのである。つまり、i=iという図式である。思うに、これが自我の数式であろう。つまり、他者である-iを自己iと解釈するのである。(ここで、言語=−1の発生の意味は次の考察の中から考えよう。)
 次に、陰意識・暗意識のことを考えると、これは、他者から自己への志向性なのである。これは、換言すれば、他者の眼、他者の視線と言ってもいいだろう。思うに、原初の自己は、とりわけ、この陰意識・暗意識を恐れたであろうと思われる。これは、他者から自己への志向であるから、自己は基本的には、受動であるしかないのである。陽意識が能動性であるのに対して、陰意識は受動性である。(おそらく、物の怪とか、アニミズム、シャーマニズム等は、後者的表現であろう。)
 思うに、近代以前は、両者の双方向関係から世界観が生まれていたのである。陰意識に「霊」とか、「魂」とか、精霊、等々と名づけたのである。つまり、陽意識と陰意識は、交流して、世界観を形成したのである。いわゆる、コスモスというのも、ここから生まれた宇宙観であろう。しかしながら、正しく言えば、例えば、中世においては、陽意識より陰意識の方が強く、この強い陰意識の上にキリスト教が成立していたと考えられよう。そして、ルネサンスが起こり(中世において、例えば、12世紀ルネサンスがあるが、それは、先駆と見ればいいだろう)、陽意識が活性化されたと考えられるのである。つまり、自己の能動的意識 i⇒-iが賦活されたと考えられるのである。つまり、中世においては、-i⇒iの陰意識(暗意識・闇意識)が優勢であったが、ルネサンスになり、逆転して、i⇒-i の陽意識(明意識・光意識)になったと考えられるのである。これは、正に、革命・革新・進化である。陰から陽へと転換したのである。おそらく、人類史において、このような陰から陽への転換は繰り返されたに違いない。古代ギリシアが代表的なものであろうし、他の古代文明期においても、類したものがあったのであろう。
 とまれ、ルネサンスないし近代(プロト・モダン)にもどると、能動的な陽意識が、おそらく、爆発的に賦活・活性化されたのである。そして、芸術的には、イタリア・ルネサンスという偉業を生み、哲学的には、デカルト哲学を生んだと言えよう。能動的な陽意識がコギトの原点なのである。しかし、注意すべきは、ルネサンスないし近代初期においては、単に陽意識があったのではなくて、それまでの、陰意識を伴っていたと考えられることである。否、正しく言えば、新たな陽意識の賦活とは、新たな陰意識の賦活と見ていいだろう。つまり、陰と陽の両極性が活性化されたと考えられるのである。これが、ルネサンス哲学が、神秘哲学やコスモス哲学になったことの要因であると考えられるのである(参照:マルシリオ・フィチーノのネオプラトニズム)。また、オカルト思想が流行した理由もここにあると考えられるだろう。そして、デカルト哲学(コギト・エルゴ・スム)において、コギトは、能動的陽意識であり、スムは、受動的陰意識であろう。つまり、e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1である。しかし、その後、コギトの陽意識に限定されて、陰意識が否定されていったのである。いわゆる、近代合理主義である近代科学・技術・資本主義の前進である。
 以上のように考えると、アポリア(難問)である、何故、差異が否定されたのかということを考察してみよう。ルネサンスにおいて、陽意識と陰意識の均衡が取れていたはずである。しかし、近代合理主義(近代的自我、近代唯物論)は、前者中心に、後者を否定していったのである。これまで、反差異的同一性を近代合理主義に見てきたのであるが、どうして、この、いわば、怪物が生まれたのかである。先にも述べたが、デカルトが明晰な判明な観念を求めて、あいまいなものを排除したことが起因ではないだろうか。つまり、能動的陽意識に傾斜したのである。この光意識は、+エネルゲイアをもち、-iである他者を+化するように思うのである。つまり、ここに-iに対する−作用があると推察されるのである。つまり、+エネルゲイアとは、反差異的同一性作用であると考えることができるのではないだろうか。(逆に言うと、−エネルゲイアも反差異的同一性作用だろう。つまり、(-i)*(-i)⇒−1である。)そのように考えられるならば、何故、近代的自我のもつ反差異性の発生したのかという理由は自明となる。
 ここで、整理すると、原近代(プロト・モダン)において、陽意識と陰意識の両極性が賦活されたのである。換言すると、コスモスが発動したのである。しかしながら、デカルト哲学は、もともと、原近代を基盤としているが、陽意識・+エネルゲイアに傾斜したため、陰意識・−エネルゲイアを否定してしまったということである。そして、この路線が近代合理主義となったのである。デカルトの後、スピノザが出て、陰意識を取り込んだ哲学を創造したのである。(ライプニッツは、予定調和という観念で、陽意識が強かったと言えよう。)だから、デカルト/スピノザ哲学と、本来理解することで、「ポスト・モダン」となると考えられるのである。そう、デカルト自身は、陽意識を徹底する試論を行ったのであり、その点では問題はないのである。ただ、陰意識の探求が不徹底であったということである。
 近代合理主義の発生は単にデカルト哲学の問題だけでなく、他に発生する原因があると考えられるだろう。有り体に言えば、ルネサンス/プロト・モダンとは、太極性の活性化である。あるいは、東洋文明の新生であると言えるのである。宗教的に言えば、異教の再生であると言えるのである。つまり、実は、ルネサンスは、西洋文明にとって都合の悪いものが発生したことになるのである。キリスト教を否定するものが出現したのである。思うに、キリスト教は、陰意識を信仰の次元に変えていたのであり、陰意識の認識をタブーにしていたのである。中世スコラ哲学の頂点であるトマス・アクィナスの理性と信仰の調和がキリスト教としての基本的枠組みであったと言えよう。理性である陽意識は、確かに認めるが、信仰の対象となる陰意識の合理性・理性をキリスト教会は、絶対タブーとしたのである。(これは、イデオロギーと見るべきだろう。民衆支配のイデオロギーである。そう、二つの合理性・理性があるのである。陽意識の理性と陰意識の理性である。)
 結局、ルネサンスは、キリスト教にとってタブーの陰意識を賦活・活性化したのである。そして、デカルト哲学の明晰性とは、この路線に忠実であったと言えよう。デカルト的合理主義は、陽意識を肯定して、陰意識を排除したのである。つまり、キリスト教会のバイアス・イデオロギーが西洋社会・文化に存在するのであり、それが、脱西洋文明的なルネサンス/プロト・モダンを否定して近代主義へと捩じ曲げたと言えるだろう。プロテスタンティズムも、同様の捩じ曲げであると見なくてはならないだろう。
 これで、これまでの最大の難問であった近代的自我の否定性の発生について、自己認識方程式を活用して、整合的に説明できたのではないだろうか。もう一度整理すれば、ルネサンス/プロト・モダンにおいて、差異が賦活・活性化された。それは、陽意識と陰意識の双方を活動させたのである。だから、e^i*e^ (-i)⇒e^(i-i)=e^0=1が生起したのである。しかるに、近代西欧は、キリスト教会のバイアス・イデオロギーがあるために、本来的に、東洋・異教再生であるルネサンスを認めることができずに、否定・排除・隠蔽的に対処したのである。それが、近代合理主義であり、魔女狩りや植民地主義や帝国主義、オリエンタリズム等を生んだのである。東洋・異教復興であるルネサンスを継承したのは、少数の天才たちであった。(そう、スピノザ哲学、神即自然の思想は、正に、東洋・異教新生であろう。これは、ポスト・ユダヤ・キリスト教である。正しくは、ポスト・キリスト教会であろう。)カントは、両者の中間であった。そして、キルケゴールが超越的特異性を復活させ、シェリングが自然と理性との融合した「メディア」界を示唆し、また、ニーチェが近代合理主義やキリスト教を破壊し、フッサールが決定的に超越論的現象学を打ち立てて、超越論的志向性を突き止めたのである(ただし、+エネルゲイア、陽意識の志向性であったろう)。他の分野・領域でも、キリスト教会的発想、陰意識合理性の否定と東洋・異教再生との闘争が闘われたと考えられるのである。そして、ポスト・モダンは、明確なこの闘争であるが、西欧の陽意識の強固さによって、陰意識を完全に解放できずに、不十分な立場に留まってしまったと考えられるのである。(しかし、後期デリダは、ポスト・モダンを哲学的に徹底したように思える。)
 そして、現代日本において、不連続的差異論が誕生して、停滞・衰退したポスト・モダンを前進させたのであり、それから、プラトニック・シナジー理論へと発展したのである。これで、完全にポスト・モダン理論が形成されたと考えられるのである。つまり、新東洋・異教ルネサンスの理論の誕生である。西洋文明の終焉である。(思うに、西洋文明とは何かということになるだろう。それは、東洋文明の一種展開であったと思うのである。それが、イデオロギー的に東洋文明から、切断したのである。しかし、文明自体は、東洋文明が原点であるから、当然、東洋文明は再帰するのである。そして、時が熟して、内在的に東洋文明が復興したのである。そして、プラトニック・シナジー理論が、日本という東洋文明の終点、そして、西洋文明の最大の輸入国において、東西文明を超克する形で、創造されたのは、意味深長である。おそらく、本来、東洋文明も西洋文明もないのである。ただ、差異共振シナジー的人類文明があるだけである。)
 後で、不連続的差異論とプラトニック・シナジー理論との関係を考察したいと思う。思うに、後者は、前者を修正する形の理論なのである。

p.s. 以上から、何故、近代的自我は狂気なのか、という私の長年の疑問も解決されるだろう。近代合理主義は、能動的陽意識中心で、受動的陰意識を否定・排除しているのである。つまり、陽意識のエネルゲイアだけでなく、陰意識のエネルゲイア、−エネルゲイアの発生があるが、それを、陽意識である近代的自我は、否定・排除・隠蔽するのである。しかし、排除された−エネルゲイアは、陽意識に対して、非合理な衝動として発動するのである。これが、狂気なのである。暴力でもあるのである。
 現代日本の狂気シンドロームは、これで説明できるだろう。エクソ・モダンexomodern、これしかないのである。

2006年11月24日

(i)*(-i)の虚空間について:(i)と(-i)の関係の考察:その2

先の考察で、(i)*(-i)【e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=414738
Theories for the Platonic Synergy Concept. 】を(i)⇔(-i)と表記して、双方向の志向性を考えた。陽の志向性と陰の志向性である。そして、また、牽引と反発を考えた。すると、2×2=4種類の様態があるということになるだろう。とまれ、[(i)⇔(-i)]⇒+1となるだろう。つまり、[(i)⇒(-i)]⇒+1と[(-i)⇒(i)]⇒+1ということであろう。双方向の志向性は、+1なのである。おそらく、正確に言えば、⇔の双方向の均衡において、+1があるのだろう。つまり、双方向とは即非なのだろう。
 さて、問題は、−1の場合である。(i)^2ないし(-i)^2が−1である。原自己の二乗、ないし、原他者の二乗が、−1=自我(近代的自我)である。そして、ここで、私は、感情のことも問題にしたいのである。明らかに、−1=自我は、否定感情ないし反動感情的である(いわゆる、感情的とは、理論的には、否定感情・反動感情的と呼べるだろう)。そして、+1=自己は、肯定感情・能動感情をもっていると言えるだろう。あるいは、零度感情・中立感情をもっているだろう。思うに、知性とは、本来、肯定・能動・零度・中立感情を伴っているだろう。おそらく、共感性とは、この感情と通じているだろう。反感は当然、否定・反動感情である。すると、知性とは、肯定・能動・零度・中立・共感感情をともなうことになるだろう。この感情は、即非関係を維持しようとするものである。否定・反動感情によって、知性が曇らなくなるようにするのである。否定・反動感情は、他者を否定するので、当然、即非を否定することになるのである。それは、(i)*−(-i)⇒−1である。これは、既述済みである。
 問題は、−1と言語の関係である。あるいは、(i)*(-i)ないし(i)⇔(-i)と言語の関係である。あるいは、同一性と言語の関係である。これは、作業仮説であるが、言語は、即非関係から生まれたのではないだろうか。
 問題は、とりわけ、同一性と言語である。即非関係において、例えば、私は山と一如である。私は、山であり、且つ、山ではないという即非事象・現象が発生する。このときの、即非関係の「対象」-iである「山」を主体が志向して、「やま」という音声言語が生じるのであるし、文字化して、「山」となるのではないだろうか。おそらく、音声言語は、エネルゲイアの表出であろう。(i)が(-i)を志向するとき、即非における志向性(双方向の志向性:陽の志向性と陰の志向性)において、対象(-i)が、「やま」ないし「山」と表出されるのである。つまり、即非表出・表現としての言語となるのである。つまり、差異的同一性の表現としての言語である。+1の表現としての言語である。これは、芸術としての、詩としての言語でもある。
 しかし、言語が、近代において変質すると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の言語となると考えられるのである。つまり、−1としての言語である。この変質をどう考えたらいいのか。これは、メディア空間の言語から現象空間の言語への変移とも言えるだろう。つまり、近代以前は、「わたし」即非「山」であるメディア空間言語であったが、近代においては、「わたし」≠「山」の現象言語である。差異共振シナジーが喪失しているのである。詩の喪失、コスモスの喪失である。ここには、即非関係の否定があるのである。マイナスが入ったのである。(i)*-(-i)、あるいは、-(i)*(-i)となったのである。 (i)*(i)ないし(-i)*(-i)の関係である。自尊自大と自虐・卑下である。(ここで、D.H. ロレンスの『死んだ男』の言葉を想起する。贈与は、貪欲の一種であるというような言葉である。)
 これまでの見解では、近代は、差異が原点としているということであるが、差異の新たな活性化としての近代であり、イタリア・ルネサンスにおいて、開花したと考えられるのである。そして、西欧に拡大するのである。差異の活性化としての近代である。そして、哲学として、デカルト哲学が創造されるのである。問題は、明晰性である。デカルトは、明晰な合理性として、即非性を排除して、反差異・連続的同一性を求めたと思えるのである。コギト哲学は、差異の哲学であったが、デカルト合理主義は、反差異の哲学であったと思えるのである。思うに、デカルトは、感情そのものを排除してしまったのである。即非関係は、共感性、一如感情、コスモス感情をもたらすのであるが、即非関係を排除したとき、感情も排除したと言えるだろう。いったい、デカルト合理主義の合理性は何か。それは、反感情的同一性合理性であろう。実は、感情性を排除すること自体が、否定感情的であろう。他者との即非的つながりを切断した同一性は、自尊・自大的同一性である。(これは、遠近法と関係しているだろう。)
 ここで、仮説的に言うと、(i)⇒(-i)の陽の志向性と(i)←(-i)の陰の志向性による双方向志向性があると先に述べたが、デカルト合理主義においては、前者の陽の志向性が中心となり、後者が否定されたのではないだろうか。つまり、陽の志向性に対して、陰の志向性が共立することで、即非関係が生起するが、片方だけでは、即非バランスが崩壊されるだろう。おそらく、両方の志向性の極限として、−1が帰結するのだろう。陽の志向性は、(i)が(-i) となり、陰の志向性においては、(-i)が(i)となるのである。即ち、(-i)*(-i)⇒−1であり、(i)*(i)⇒−1となる。思うに、前者が、近代的自我であり、後者がプロテスタンティズムではないだろうか。
 さて、ここで、言語の問題にもどると、即非言語と反差異的言語であるが、志向性の極限によって、後者が生まれたのである。(i)*(i)と(-i)* (-i)が反差異的同一性の源泉である。だから、問題は、反差異と言語の関係である。ここで、訂正的に考察すると、(i)→(-i)において、(-i) ^2を考えたが、これは、実は、(i)=(-i)という事態(錯誤)であろう。この等号が、反差異的同一性であり、反差異的言語の母体であろう。この反差異的同一性言語を介して、主観は、客観を見ているのである。山は以前は、即非的山であったが、今や、反差異的同一性の山である。
 では、遠近法的距離ないし延長はどう説明できるのだろうか。あるいは、三次元的空間は、どう説明できるのか。確認して考察していくと、即非関係においては、本来、遠近法主義は、生まれない。有限と無限とのパラドクシカルな関係がそこにはある。しかし、反差異的同一性が成立すると、無限が消失する。即非の即がなくなり、非がなくなる。A=A且つA=非Aである即非関係から、A≠非Aとなる。つまり、「わたし」と山は、別々になるということで、もはや、「わたし」と山は、一如になることはないのである。言い換えると、「わたし」と山との間には、反差異的同一性の空間(距離)が発生したということになるだろう。そして、この反差異的同一性空間が、数量化されるわけである。1kmの距離。そして、時間も数量化されるのである。カントの超越論的形式が、この反差異的同一性時空間形式である。ここで、直観で言うと、この同一性は、光速度のことである。なぜならば、あらゆる差異関係において、反差異的同一性が発生するのであるから。例えば、差異1=差異2=差異3=差異4=・・・・・=差異n となり、この等号の同一性空間において、つまり、「わたし」と月との距離における同一性、あるいは、「わたし」とブリュージュとの距離にける同一性、これは、光速しか考えられないだろう。そうすると、−1とは、光速の数ということになるだろう。つまり、1/4回転ならぬ、2/4回転である。(ここで、想起するのは、現象空間は、2回の1/4回転、ないし二種類の1/4回転によって生起すると述べてきたことである。つまり、イデア界から一回の1/4回転で、メディア界が形成されて、第二回目の1/4回転で現象界がされるということである。)
 さて、光速が同一性であるということから、ここで、光の現象に関連して考察する必要があるだろう。有り体に言えば、光とは何かということである。ここでも直観で言えば、光は本来、光でないものである。つまり、光=非光である。そう、即非エネルゲイアの反差異的同一性が光の現象になっているのであるから、本来、差異的同一性の光が存していると考えられるのである。つまり、(i)*(-i)の原光があるはずである。私のこれまでの試論から言うと、これは、宗教的光、例えば、浄土教の光である。阿弥陀如来の光、無量光である。無限の光である。これは、換言すると、陰陽光・太極光であろう。いわば、闇をもった原光と考えられるのである。D.H.ロレンスの黒い太陽、『老子』の玄牝(げんひん)はこれではないだろうか。あるいは、黒い聖母像もこれを指しているのではないだろうか。 ということで、光現象とは、零度差異共振シナジーの原光(玄光?)の同一性現象である。とりわけ、反差異的同一性現象であると言えるように思えるのである。
 では、これを数式化するとどうなるのだろうか。明日野氏の自己認識方程式から考えると、原光=(i)*(-i)⇒+1である。そして、光=(i)* (i)=(-i)*(-i)⇒−1である。ここで、雑駁ではあるが、ダークエネルギーについて言うと、それは、前者に関係するだろう。ただし、正しくは、虚次元・虚空間におけるエネルギー、つまり、虚エネルギーである。つまり、いい足す形になるが、闇があるのである。思うに、(i)⇒(-i)の反差異的同一性が光であり、(-i)⇒(i)の反差異的同一性が闇である。両者は−1で同一となるのである。ただし、方向性が異なるだろう。天から地が光となり、地から天が闇となるのではないだろうか。
 とりあえず、ここで留めたい。

2006年11月21日

検討問題:自己認識方程式のiと-iの意味について

私は、作業仮説ないし思考実験的に、明日野氏の自己認識方程式を一般事象に転用させて使用していることを、お断りして、検討を続けたい。
 明日野氏は、+1が光の方向、−1が闇の方向、そして、iが天の方向、-iを地の方向と提起されている。+1と−1は、いわば、現象空間の実数空間の事象であり、水平方向であり、光と闇の方向というのはわかりやすい。
 問題は、iと-iの空間的意味である。ここでも、直観から考察していきたい。 (i)*(-i)は、直観的に言えば、コスモスである。コスモスは、いわば、不可視的原宇宙であり、地霊的であり、心霊的であり、精神的であり、心身的であり、気的である。いわば、精神的運動性をもつのである。あるいは、精神的力動・エネルゲイアをもつのである。これは、心眼で見えるのである。たとえば、遠くの山の頂を見るとき、心象として、心的力動的に、上昇したり、下降したりしているのである。これは、コスモスの動きと言っていいだろう。
 また、遠くの山並を見つめていると、私が山と一如になったり、あるいは、通常のように分離したりするのである。つまり、私と山が即非関係にあるのである。これらが、 (i)*(-i)の事象であろう。平明に言えば、私は山であり、且つ、山ではないということである。あるいは、山頂は、上昇したり、また、下降しているのである。
 そう、ここで、整理しておくと、+1や−1の実数は、現象空間の事象である。同一性、個体・個物である。しかるに、 (i)*(-i)は、内在超越空間・虚空間・虚次元の事象である。だから、私と山との即非事象は、内在超越空間の事象であり、私=i、山=-i となるだろう。私の感じでは、私と山とが一如になるというのは、私の-iを介してである。つまり、私の内在的な-iを介して、私と山が共振しているのである。そう、私の-iとは、身体の方向であり、下方であると言えよう。だから、明日野氏の説くように、-iを地の方向、大地の方向とするのは、適切であると考えられるだろう。そう、私の身体の-iを介して、私は、コスモスと一如なのである。D. H. ロレンスのコスモスとは、まさに、身体精神的コスモスであり、身体の-iを介していると言えるだろう。ということで、明日野氏の立論が納得できたのである。
 ところで、近代的自我ないし近代合理主義であるが、以上の考えからすれば、-iを否定・排除・隠蔽して、 (i)*(i)の関係になっていると言えるだろう。思うに、 (i)*(i)⇒−1の−1が反差異・連続的同一性であり、物質であろう。カントの時空間形式である。超越論的形式とは、 (i)*(i)のことではないだろうか。それを、近代唯物科学は、無視して、−1という数量形式を物質単位としているように考えられよう。フッサールの生活世界とは、+1の世界である。差異的同一性の世界である。そして、差異共振シナジー的現象空間である。これは、芸術空間でもあろう。
 先にも触れたが、近代とは、+1と−1の二元的に分裂した時代であり、とりわけ、−1が、唯物科学・技術・資本として肥大化したと言えるのである。デカルト哲学は、明らかに、二元的であった。今日、スープラ・モダンsupramodernの時代においては、−1を否定して、+1の世界を形成する必要があるのである。差異共振シナジーの世界を形成する必要があるのである。結局、これは、自己他者である自己身体ないし自己身体精神の発見によるのではないだろうか。仏教的に言えば、瞑想・座禅の必要である。しかし、理論的には、「イデア」を認識することである。現象空間を内在超越(超越論)化した、「イデア」空間・虚空間を認めることである。もっとも「イデア」空間とは、メディア空間のことである。
 ついでに言うと、アメリカの哲学者パースの説く連続性とは、差異共振シナジーに近いのではないかと予感されるのである。

連続性の哲学 (文庫)
C.S. パース (著), 伊藤 邦武 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003368819/sr=11-1/qid=1164109230/ref=sr_11_1/250-0266631-2970646

 さて、後の大きな問題は、イデア界とメディア界との関係である。

2006年11月17日

反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか

反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか

メディア空間においては、(+i)*(-i)が成立している。零度差異共振シナジー様相ないし事象である。これが、現象化するのであるが、そのとき、同一性化が生起する。いったい、同一性とはどこから発生するのか。もし、(+i)を原自己、(-i)を原他者とするなら、同一性とは、一般には、原自己が原他者を否定するようなものと考えられるかもしれないし、これまで、そのように見てきた。即ち、(+i)*-(-i)としての反差異・連続的同一性である。即ち、−1を帰結するのである。
 その見方は、それで、明快であるが、私の直観では、同一性、即ち、反差異・連続的同一性は、そのような-(-i)とは異なるように思えることである。この点を調べてみよう。原自己の(+i)と原他者の(-i)が共振しているが、共振は、*である。そして、共振から両者が連結様態になるのである。あるいは、両者結合するのである。それが、等号関係である。(+i)*(-i)⇒(+i)=(-i)であろう。そして、この等号が、同一性である。しかし、この様態は、差異的同一性であろう。なぜなら、(+i)と(-i)との不連続的差異が存立しているからである。ならば、反差異・連続的同一性はどのように生起するのか。それは、等号=が、両辺の(+i)と(-i)を否定したときであろう。つまり、おそらく、等号自体が、反差異・連続的同一性となるのである。だから、等号は、(+i)も(-i)も、無化して、すべて反差異・連続的同一性に還元してしまうのである。いわば、絶対的同一性である。ここにおいて、メディア空間は、完全に否定されるのである。ただ、絶対的同一性空間があるだけである。これが、物質空間、唯物空間、近代科学空間であると考えられるのである。そう、絶対的同一性が物質ないし物質の単位である。「アトム」である。「粒子」である。
 では、この等号・絶対的同一性の発生力学は何だろうか。私が、個体とは、特異性であるというとき、それは、差異的同一性ないし差異的同一性個体のことである。例えば、眼前の一個の柿は、非柿でもあるものである。平たく言えば、それを石の換わりに、武器として使用して、敵に投げつけることもできるのである。つまり、眼前の柿は、非柿=武器である。それは、差異的同一性の一例である。とまれ、そこには、潜在したエネルゲイアがあるのである。(内在超越したエネルゲイアであろう。単に内在していると言いたい気もするが、それは、プラトニックな空間において内在しているのであり、現象空間において内在しているのではないから、やはり、内在超越していると言わなくてはならない。)
 さて、この差異的同一性=特異的個体性を否定・無化した反差異・連続的同一性=絶対的同一性であるが、この否定・無化はどこから発生するのだろうか。差異の極性(即非性)を否定・無化する「力」はどこから発生するのか。ここでも、直観から言えば、差異的同一性の同一性現象だけに注目すると、確かに、眼前の一個の柿と隣にある他の一個の柿とは、排他的関係にあるのがわかる。柿Aと柿Bは、いわば、二律背反である。この柿とあの柿とは、現象空間的には、絶対的に排他的関係にあると言えよう。例えば、この柿は腐っているのであるし、あの柿は完熟して、豊潤な味覚なのである。誰が、この柿を欲するだろう。ここで、複数の飢えた人間は、互いにあの柿を求めて、相争うことになるのである。このように考えると、反差異・連続的同一性=絶対的同一性とは、現象空間と相即であることがわかる。つまり、視覚空間、純粋視覚空間としての現象空間が問題となっていると考えられるのである。純粋視覚空間は排他的である。ここに、反差異・連続的同一性=絶対的同一性が形成されていると言える。
 そうすると、問題は、純粋視覚、現象空間とは何か、ということになる。見るとは何かということになる。私の考えるヴィジョンとは、当然、内界的な映像である。それは、(+i)*(-i) ないし(+i)⇒(-i)のヴィジョンである。しかし、同一性へと転化するときには、それは、薄れていくだろう。差異的同一性は、(+i)*(-i)⇒+1である。しかし、反差異・連続的同一性は、(+i)*(-i)=+1の+1ないし1ではないのか。あるいは、絶対値の1、|1|かもしれない。これが、純粋視覚空間の同一性ではないのか。そう、左辺が無化されているのである。単に、実数の世界である。1と2とは排他的関係、1≠2である。(微分とは、不連続的差異を無視しているのであり、絶対的同一性の虚構であろう。)
 すると、先にも述べたが、⇒+1と=+1の違いが大きいと思う。前者は、エネルゲイアがあるが、後者はエンテレイケイアのみである。この違いの原因は何か。ここで想起するのは、明日野氏が、+1は、光の方向、視線の方向であると述べていたことである。つまり、現象空間形成の方向である。そして、近代とは、この方向のエネルゲイアをもっていたと考えられよう。西欧近代における遠近法の発達とは、正に、これを証するだろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが、西欧近代の方程式であろう。正確に言えば、(+i)*(-i)=+1である。これが、西欧近代主義の方程式であろう。+1という実数の世界であり、これが、相互に排他的なのである。社会・政治空間的には、ホッブズの万人に対する万人の戦争である。
 さて、問題は、この現象空間化が+エネルゲイアに拠るならば、当然、−エネルゲイアが生起するのである、というか、同時生起である。±エネルゲイアがメディア空間に存立・共立・並存生起するからである。では、当然、−エネルゲイアの事象が生起しているはずである。つまり、−1の世界、反世界である。反現象世界である。そう、「ダーク・エネルギー」の世界である。黒い太陽の世界である。つまり、近代において、+1の現象空間だけでなく、−1の反現象空間・闇黒空間が生起しているはずである。光と闇の対発生である。しかるに、西欧近代は、光しか見ようとしないのである。デカルト哲学の合理主義は、この面があると思う。デカルトがあいまいなものを排斥して、明晰判明な観念を真理として、その他を誤謬としたが、このあいまいなものが、闇であったであろう。−1、闇の世界を、西欧近代は、排除しているのである。これは、不正義である。不正である。不公正である。一種邪悪である。初期近代ないし近世において、光と闇が同時生起したのであるが、西欧近代は、闇を無化したのである。魔女狩りとか、はその一つの発現と考えられる。そう、プロテスタンティズム自体がそのようなものでもあろう。神秘思想家のヤコブ・ベーメやエックハルトの闇が否定されたのである。近代科学は、この闇否定から生まれたと言える。
 では、何故、西欧近代は、光と同時生起した闇を否定・無化したのか。現象空間=光空間だけを肯定して、非(反)現象空間=闇空間を否定・無化したのか。今の私の直観では、それは、男性の恐怖があるのだと思う。つまり、男性は、光空間への傾斜があり、闇空間を本質的に恐怖するのではないのか。つまり、+エネルゲイアへの傾斜を男性はもっているならば、当然、−エネルゲイアへは反発するはずである。−エネルゲイアを否定し、抑圧し、排除・排斥し、隠蔽し、無化するはずである。おそらく、これである。男性の恐怖、とりわけ、アーリア民族男性の恐怖が、近代初期において生起した闇空間を否定・無化したのである。そうすると、これまで、反復してきた、近代的自我の発生の問題であるが、それは、これで解明されるだろう。何故、差異を否定するのか、と言えば、それは、男性、とりわけ、アーリア民族の男性が本来、+エネルゲイア、反差異・連続的同一性への傾斜・志向性がもっているからであるということになるのである。だからこそ、魔女狩りが起きた説明がつくだろうし、近代科学が発生したのも判明するだろう。近代科学は、他者否定的で、暴力的である。つまり、近代科学は、絶対的同一性=物質を絶対的基礎としているのであり、それ以外のものを排除・排斥するのである。
 ということで、近代的自我の成立とは、アーリア民族男性の+エネルゲイアへの傾斜・志向性に根拠があるということになったのである。そして、私が頻繁に悪魔と呼ぶものは、正に、このことに他ならない。つまり、近代初期に生起した光と闇の対空間発生に対する、アーリア民族男性の+エネルゲイアによる恐怖的反動、これが、悪魔の正体なのである。

p.s. 思えば、近代科学の創始者たちは、いわゆる、オカルトにもたいへん興味をもったのである。ニュートンの錬金術、ケプラーの占星術、これは、近代が、本来、光と闇の対発生であることの証左の一つであろう。

p.p.s.  また、この対発生を考えると、どうして、ルネサンス において、神秘思想 ・魔術・ネオ プラトニズムが興隆・流行したのかもわかるだろう。フィチーノの魔術思想 、ピコデラミランドラ の神秘思想 、ジョン・ディー の魔術思想 、シェイクスピア の魔術思想、等々。
 また、文学 のモダニズムにおいて、どうして、宗教 ・神話 や神秘思想 が導入されたのかも、理解できるだろう。

2006年11月13日

合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:デカルトとポスト・モダン

合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:例えば、近代合理主義の近代合理性とは、何であり、どこから発したのか。あるいは、知性とは何なのか。どこから、知性が発するのか。
 近代的自我は、(i)*-(-i)⇒-1 であるが、やはり、最初のマイナスの発生が問題である。具体的に確認していこう。眼前に、カップがある。同一性(同一性体)である。しかし、眼前のカップは、実際は、差異的同一性であるが、物質的知覚は、それを、反差異・連続的同一性として捉える。ヘーゲルの個別性である。差異的同一性(=特異性)が捨象されているのである。あるいは、差異が排斥されているのである。
 近代的自我とは、この差異を消去した認識、反差異・連続的同一性認識をもつものと言えよう。もし、差異的同一性=自己であれば、自己と他者であるカップの間に、なんらかの共振性が生起するのであるから、カップは、差異的同一性として認識されるだろう。しかし、反差異・連続的同一性=近代的自我であれば、自我と他者を絶対的に二元論的に区別して、カップは、カップであり、それ以外の何ものでもないと判断するだろう。A=Aであり、A≠非Aである。そして、このカップは、他のカップと同様に、カップとして、連続的同一性である。これが、ヘーゲル的個別性=一般性の考え方であるが、これは、とりもなおさず、言語観念形式の考えた方であろう。名詞のカップは、反差異的同一性として、観念体系の中で、一般性をもっているのであるから。つまり、言語観念形式は、反差異的同一性形式をもっているということになるだろう。【ここで、ヨハネの福音書の冒頭「初めに、ロゴスありき」を、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と訳した(誤訳した)ことを想起するのである。】
 近代的自我=反差異・連続的同一性=言語観念形式という図式がほぼ形成されるだろう。そして、これを数量化して、近代合理主義が成立する。つまり、物質の誕生である。差異を排除した同一性の徹底化である。そして、この数量化された反差異・連続的同一性、即ち、物質的合理性が、近代合理性であり、その知が近代知性である。ここには、差異に対する絶対的否定性が作動しているのである。-(-i)の最初のマイナスである。
 とまれ、これで、近代合理性について解明できたといえるが、一般に合理性とは、なんらかの同一性の論理であると言えるのではないか。例えば、即非の合理性とは、差異的同一性の論理であると言えるのである。
 これで当初の問題をクリアしたが、やはり、否定の期限の問題が残っている。これまで、キリスト教的二元論に否定性の起源を見てきたのではあったが。しかしながら、キリスト教文化をもたない場所においても、否定性が出現するのであるから、この説は普遍的説得力をもたない。
 やはり、その説以前に述べた、不安・恐怖説の方が的確ではないだろうか。差異は、本来、単独性・特異性であり、孤独である。これが、近代初頭に出現したのである。ルネサンスがそうであるし、それ以後、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、パスカル等にあったものである。でも、何故、差異は不安なのか。その理由は、人間は、受動性をもっているので、差異の様相にあるときに、支えが無くなるから不安になるということと考えられる。つまり、単独性・特異性に、自己がさらされるのであり、受動的自己は、どこにも、支えを見つけられないのである。つまり、ここにおいて、外在的な支えはすべて崩壊したと言っていいのである。デカルトのコギト哲学とは、正に、単独性の自己の哲学であり、単独性に自己確認を見出したものである。しかし、この単独性から、デカルトは、明晰な観念=合理性を求めていくのである。しかし、この合理性が、反差異・連続的同一性、近代合理主義につながったと考えられるのである。というのは、デカルトは、あいまいなものを能動的に排除して行ったのである。そして、このあいまいなものに、感覚性が入ったのである。この結果、身体が排除されることになったと考えられるのである。あいまいなものを排除するという合理主義は知性としては、正統的であるが、その中に感覚性を入れたことが、近代的合理主義の誕生となったと言えるのである。心身二元論である。思惟と延長との二元論である。
 思うに、感覚ないし身体と観念・知性との関係の中に、差異があるのである。私は、精神とは心身であると考えている。単に、心だけでは、単に、身体だけでは、精神はないと考えられるのである。そう、差異の発現としての、心身であるからである。差異の発現として、心があり、身体があるのであり、どちらか一方ということではないのである。正に、心と身体とは、一如である。心身一如である。だから、感覚・身体を排除したデカルト合理主義とは、当然、否定性を帯びて、反差異的合理主義になったと言えるのである。単独性から出発していながら、デカルトは、正反対の近代合理主義に帰結したのである。デカルト哲学は、絶対的矛盾を内包していると言えるのである。(このデカルトの矛盾をほぼ解決したのが、スピノザであるが、これについては、既述である。)
 では、デカルトの感覚・身体否定は、どこから発しているのか。何を意味しているのか。思うに、ここには、感覚・身体に対する観念・知性側の切断があるだろう。この切断には、不連続性には、意味があるのである。これは、おそらく、超越性、内在超越性の意味があるのである。現象的感覚・身体性を捨象うするということは、超越性を志向していると考えられるのである。極言すれば、「イデア」性を志向しているのである。宗教的に言うと、一神教とパラレルと考えられる。神=「イデア」の次元とすれば、ほぼ等価である。
 だから、デカルト合理主義の合理性とは、超越次元にあると考えられるのである。故に、近代合理主義の合理性も超越的であるということになるのである。つまり、近代合理主義とは観念的なのである。そして、これをカントは、超越論的形式と呼んだと考えられるのである。デカルトとカントは、当然ながら、直結しているのである。さらに言えば、近代合理主義の合理性とは、構造であるということである。構造主義は、デカルト/カントから発していると言っていいだろう。
 だから、近代主義とは構造主義なのである。近代科学は構造主義なのである。問題は、脱構造主義である。ポスト・近代主義である。なぜなら、近代主義は、差異を内包しているから、当然、差異の進展が帰結するからである。つまり、脱構造主義、ポスト・モダンは必然なのである。
 では、差異の内包について考察しよう。コギト哲学は、単独性・差異哲学であるから、当然、差異が前提にあるのである。これが、近代合理主義によって、隠蔽されているのである。ちょうど、ルネサンスが、プロテスタンティズムによって隠蔽されているように。問題は感覚・身体否定にある。そして、知性の問題である。そして、観念の問題である。そして、言語の問題である。また、数学の問題である。おそらく、明晰な思考とは、言語観念形式や数学を必要とするのである。言語観念形式や数学がなければ、思考は、不分明なままである。あるいは、ヴィジョンのままである。直観のままである。おそらく、ここに人間の知性形式の問題があるのである。なんらかの観念形式によって認識するのである。観念媒体と言ってもいい。おそらく、デカルトは、明晰な観念を求めて、感覚・身体を否定したのである。これが、近代の否定性である。
 ここで図式化してみると、(i)*(-i)は、(i)⇒(-i)であり、これが、単独性・特異性である。しかし、この ⇒は、+エネルゲイアと考えられるから、反転して、−エネルゲイアと発生させるのである。つまり、反作用である。だから、(i)←(-i)であり、結局、 (i)*(i)⇒−1である。これは、意味のある反転・反動である。
 しかし、問題点は、原点を喪失することである。超越性、超越論性、内在超越性という原点・次元の喪失・忘失である。構造主義とは、この意識化であろう。つまり、構造主義とは近代主義そのものの意識化・理論化である。そして、それに対して、キルケゴール、ニーチェ、フッサールが脱構造の志向を提起したのである。これは何を意味するのか。当然、ポスト近代主義であるが、これは、どういうことなのか。近代主義のもつ超越次元喪失に対する批判である。あるいは、反差異的同一性へと帰結した近代主義運動への批判である。
 メディア空間の差異共振は、いわば、永久運動であるから、閉じられることはないのである。しかし、近代主義運動は、反差異的同一性に閉じられてしまっているのである。これは、フッサールの自然的態度と言っていいだろう。これは、反差異的同一性という物質や貨幣が、経済的現実を支配していることに起因があるように思える。つまり、生存の恐怖から、反差異的同一性の態度を反動的に保持すると考えられるのである。ということは、高貴な精神をもっている人格において、当然、一般に隠蔽された差異が活動しているのである。ニーチェが言った「貴族」的精神をもった人間が、現実にある差異を肯定するのである。デカルト哲学の未熟性・不十分性を克服すべく、スピノザ、カント、キルケゴール、ニーチェ、フッサールと西洋哲学の天才たちが、差異の哲学、ポスト近代主義の哲学を開拓していったのである。しかし、これに対する近代主義的折衷が生まれる。つまり、連続論的哲学である。ライプニッツのモナド哲学、ベルクソンの持続論、ホワイトヘッドの有機体論、ハイデガーの存在論、ドゥルーズの連続的差異論等である。そして、フランス・ポスト・モダンは、初期は、そのようなものであったが、後期デリダにおいて、正統なる差異哲学/ポスト・モダン哲学が、復帰したのである。
 ということで、近代とは、必然的に、ポスト・モダンなのである。出発点が、差異であるからである。これが、怯懦によって、近代主義となったのである。近代は、構造主義であり、且つ、脱構造主義なのである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が、このポスト・モダンの問題を解明したことになるだろう。そして、それは、内在超越次元であるメディア空間の発見である。

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