2007年03月09日

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

テーマ:日本再生復興計画

九鬼周造の『偶然性の問題・文芸論』の「情緒の系図」にある和歌や九鬼の分析を読むと、現代の日本が何を喪失したのか、直観的にわかる。

先に、メディア・ポイントMPを近代主義は喪失したと述べたが、正に、そのことが直観されるのである。

「教養」の喪失と言ってもいいのだが。

教養とは、自我から自己・個への成就のための知であろう。

近代主義は、自我主義であり、自己・個を否定するのである。

現代日本の惨状の原因は、ここにあると言っても過言ではない。

PS理論的に言えば、メディア・ポイントの不連続性・超越性の様相、即ち、イデア界の否定が根因としてあるのである。

形而上学や宗教や芸術等は、このイデア様相を志向してきたのであるが、これが、戦後教育、唯物科学教育によって否定されてきたのである。

思えば、私も、完全に唯物科学教育を受けて、主観性の発展を自己否定してきたのである。

私は、ロマン主義と唯物科学の矛盾に、思えば、長い間、悩んできた。ロマン主義は、神秘主義やオカルティズムにも通じるものであるが、イギリス・ロマン主義は、啓蒙主義との関係が深いのである。

思えば、唯物科学の物質主義のフレームワークをどう突破するかが問題であったのである。近代合理主義は、物質的合理主義を前提としているから、それを超越する発想をあざ笑う(あざ笑った)のである。

そう、唯物科学の反動として、神秘主義やオカルティズムやニューエイジ・ニューサイエンスの動きがあったと言えよう。しかし、それらは、反動性を強くもっている。

ポスト・モダンは、確かに、近代を乗り越える処方箋をもたらすように見えた。しかしながら、それも、軽薄に終わった。

私は、三島由紀夫のファンではないが、彼の最高のものは、「文化防衛論」だと思っている。戦後日本への憂国の現われとして、「どこかで断絃の時があったのだ」という一言が鋭く私を刺し貫いた。

「断絃の時」なのである。これは、今や、メディア・ポイントの喪失ないし隠蔽として、理論化できるのである。

そして、本稿の冒頭にもなるのである。そして、この問題は、現代日本で先鋭化しているが、世界全体における問題でもあると言えよう。イデア界・叡知界の喪失なのである。

宗教的次元の喪失と言ってもいいのだが、宗教は、一般に非合理主義の態度を取るので、批判知性を喪失する傾向にあるので、強く主張はしない。宗教を哲学化するとイデア論になると思うのである。この宗教の知性・叡知・合理化が実に根本的に重要なのである。

PS理論は、これを為すものである。

九鬼周造の『偶然性の問題』は、形而上学と経験論とを併せ、重ねて、論じた卓抜した哲学書である。形而上学は、イデア論となるしかないと思うのである。

ここで、飛躍するが、思うに、問題は、ロゴス論にあったと思うのである。あるいは、理性論である。西洋哲学では、理性、知性、悟性、等の区別が実に曖昧である。

この混乱は、ロゴス論にあると思うのである。

ロゴスは、古代ギリシア哲学の用語である。それが、ヨハネの福音書の冒頭に使用されたのである。「初めに、ロゴスありき」である。これを、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と誤訳した。

確かに、ロゴスと言葉は、重なる側面もあるが、一致しない。

そう、ロゴスとは、大乗仏教の法(ダルマ)とほぼ等しいと思うのである。

西洋哲学は、理性を比率等として考えたのである。ratioである。

そう、理とは何か、である。

理はロゴスや法と等しいであろう。

そして、直観では、これは、叡知と等しいのである。

すべては、形而上学的智である。

これを、西洋哲学は、言語化していくのである。

ロゴス=言語の方法である。

ソクラテス/プラトンで言えば、対話術(これが、「弁証法」の原義である)である。ここに、西洋哲学、西洋叡知学のエッセンスがあると言えよう。

無知の知、あるいは、クザーヌスの「知性ある無知」である。

そう、プラトンとアリストテレスの分裂にすべての元凶があると言えよう。プラトンは、形而上学的現象学を説いたのであり、考えれば、現象学の始祖とも言えるのである。そして、アリストテレスは、近代科学の始祖とも言えよう。

この二元論に現代西洋文明の超危機の根因があると言えよう。

いったい何が問題なのか。

これは中世の普遍論争に見ることができるが、私見では、一般性と普遍性の鳥違いが問題なのである。

これは実に単純なことなので、これを錯誤した人類史とは何か、と思わざるを得ない。

即ち、一般性は言語形式であり、普遍性は言語形式を超えた形而上学的真理である。この両者を西洋哲学は、ロゴスや理性や知性や悟性と呼んできたのである。これが大混乱の起源であると思う。

近代主義、近代合理主義、近代的自我の「狂気」の根因がここにあるのである。

結局、個物・個体のhaecceity(個体原理)に普遍性があるのであり、それが、形而上学的普遍性に通じるのである。これは、一見逆説的であるが、そうなのである。

九鬼哲学では、偶然性である。

西洋哲学の観念論は、一般性=言語形式=観念=ロゴス=理性と捉えて、形而上学的叡知を完全に外したのである。カントの純粋理性批判は、この理性と形而上学的叡知との混濁である。

そして、この頂点的帰結がヘーゲル哲学である。

そして、これが、マルクス主義やファシズム=国家社会主義を生んだと言える。現代日本はこの最大・最悪の帰結である。

この一般性と普遍性との混同であるが、結局、個物・個体と一般性が結合(野合)してしまったのである。これが、近代合理主義を生んだのである。

そう、この原因は、アリストテレス哲学にあると言えよう。個物・個体の形相を、イデア界ではなくて、現象・物質的経験界に求めたからである。

個物・個体の形相は、イデア界にあると見るが正しいのである。そして、このイデア界的形相が普遍性なのである。

つまり、内在的超越的形相=イデアが普遍性なのであり、一般性は、単に言語形式に過ぎないのである。

ここで、東洋について言うと、大乗仏教という真に偉大な叡知・思想があったため、知性において形而上学性を保持したのである。大大乗仏教である。

つまり、西洋哲学的見地から言うと、東洋哲学は、イデア論を基礎的に保持しているのである。ということは、逆に言えば、プラトン哲学の東洋性なのである。プラトン哲学は東洋哲学と言うべきなのである。対話術も、東洋性ではないのか。

とまれ、大乗仏教哲学をもつ東洋思想は、初めから、形而上学的知性、叡知学であったのである。

そして、この帰結が鈴木大拙の即非の論理であり、九鬼周造の偶然性の論理であると言えるだろう。(西田哲学も、一つの帰結であるが、彼の言語表現に問題はあるだろう。思うに、どうも、連続性と不連続性との混乱があるように思えるのである。)

日本は、東洋哲学をもち、その上で、西洋哲学を移入し、その結晶が両者の思想・哲学であり、世界に誇るべき成果である。

しかし、日本は、西洋コンプレックスのために、正しい自己評価ができないできてしまったのである。

物質文明へのコンプレックスである。

確かに、世界は、地球は、西洋近代物質主義暴力・狂気文明に侵略されたのである。

そして、その惨状が今も続いているのである。人類終末期を迎えているのである。

さて、問題は、日本である。なぜ、自己を見失ったのか。持論では、排仏毀釈にある。国家神道にある。ここで、日本は、思想的バランスを喪失したのである。

国学は、キリスト教の影響を受けているのである。それは、一神教的志向をもっているのである。これが、他者を喪失させたと思われるのである。

では、なぜ、一神教は他者を喪失させるのか。

一神教は、結局、自我を肯定してしまうからである。自我と唯一神とを一体化させてしまうのである。確かに、本来、一神教の神は形而上学的次元、イデア界的次元に存している。そして、この次元は、自我からは超越した次元である。

しかし、いかに、自我から超越した次元とは言え、唯一神の同一性は、自我の同一性と連続化してしまうのである。凡人・愚者の有り様である。

結局、自我即唯一神となるのである。これが、狂気なのである。

これが、近代的自我である。

自我が普遍性となれば、当然、他者はなくなるのである。

これが、狂気・暴力を生むのである。

確かに、キリスト教等、一神教は、本来的には、優れた宗教であるが、しかし、自我と結びやすい宗教であることは否定できないだろう。

「主」という主語が、他者である述語を支配してしまうのである。

「主」という超越的同一性が、他者・差異を否定しまうのである。

PS理論は、「主」の超越的同一性を否定・無化するものである。

その代わりに、イデアである差異即非様相を置くものである。ここには、差異的同一性があるのであり、自己と他者との共振シナジー様相があるのである。

そう、一神教的「主」が、ここでは、解体して、他者との対話を永遠継続しているのである。

そうすると、一神教とは何か、ということになるだろう。

これまで私が述べてきたことは、それは、自我に傾斜しているということである。あるいは、父権主義であるということである。

「主」・唯一神の「我」とは何か。それは、自我であるのか。「復讐するは我にあり」。もし、イデアが神ならば、それは、「我」になるだろうか。

それは、元知と元身体との即非関係である。あるいは、元自己と元他者との即非関係である。そのイデア・叡知を「我」と言うのだろうか。それは、「我」、「自我」ではありえないだろう。それは、少なくとも、元個、元自己である。あるいは、元自他である。元・我ー汝である。根源的複数である。

だから、やはり、一神教は自我に傾斜している邪教ではないだろうか。
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2006年11月02日

写真と精神:精神的視覚と「写実」:同一性主義批判と新東洋文明曙光(はてなダイアリーから)

〓〓Β.jpg先に、映画 と精神 について、簡単に言及したので、ここで、本件について簡単に触れたい。もっとも、これは、芸術 と精神 ないし感覚と精神 の問題として一般化できるが、一般論 は、ここでは置いといて、写真 と精神 に限定したい。(そう、これは、デザイン と精神 、等々と展開するだろう。)

 映画 については、ベラ・バラージュの古典 の『視覚的人間 』があるが、

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003355717/sr=8-1/qid=1162439021/ref=sr_1_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books

精神 の表現技術 の方にウェイトが置かれているだろう。(この書は、思うに、映画 の一種モダニズム的理論 だろう。)

 映画 の精神 表現については、精神 的視覚性が映画監督 に必須の資質だと思っている。つまり、美術 的資質である。それに物語 の資質等が加わって、映画芸術 が可能になるだろう。小津安二郎 の映画 (少し過大評価 ではないかと思われるが)は、やはり、美術 的側面というか、絵画的側面が強いだろう。

 では、本件の写真 と精神 のテーマ については、どうだろうか。これも、直観では、精神 的視覚性が基礎だと思うのである。つまり、やはり、美術 的資質である。(映画 や写真 は美術 芸術 に入るものであるし、漫画やアニメもそうである。しかし、精神 表現がなくてはならない。)

 精神 的視覚とは、何か、ということになる。これは、「イデア 」的視覚であるし、ヴィジョン的視覚とも言えるだろう。(神秘的に言えば、透視 に近いのであるが、「霊視」になると、これは、逆の二元 論となり、病理的倒錯である。)これを、プラトニック・シナジー理論 の視点から考察 すると、これは、とりもなおさず、不連続的差異 の即非共立的視覚ということではないだろうか。精緻に言えば、不連続的差異 即非共立的「同一性」志向視覚ではないだろうか。これを図式化しよう。

差異1☯差異2☯・・・☯差異n   (差異即非界)

において、☯→=(即非→同一性)が、プラスの志向性として生起するし、同時に、☯→dd (discontinuous difference:即非→不連続的差異 )が、マイナス の志向性として生起すると考えられる。

 精神 的視覚、イデア 的視覚とは、☯→=(即非→同一性)における→=(→同一性)に存するのではないだろうか。光の志向性と言ってもいいだろう(それに対して、→dd は、闇の志向性と呼べるのではないだろうか)。換言すると、精神 的視覚=光の志向性とは、即非共立ヴィジョンをもった「同一性」視覚ということになろう。これは、不思議 なヴィジョンではあるが、単純化すると二重のヴィジョンであるが、正確には、多重多層複合融合的ヴィジョンである。この精神 的視覚能力が、美術 的資質・才能 ・天才である。これで、すでに、写真 と精神 のテーマ は、解決しただろう。結局、現象に対して、精神 的視覚を向けて、撮影したものが写真 芸術 である。(後、闇の志向性と写真 の問題があるが、これは、課題としておこう。)

 さて、最後に、「同一性」の問題を考えたい。先に、連続 的同一性と不連続 的同一性(特異性的同一性)を区別した(これは、量的同一性と質的同一性と言い換えることもできるだろう)。しかし、同一性という言葉 は、差異の現象に対して、直に使用すると落ち着きが悪いと感じられるのである。

 →同一性と言えば問題がないのである。とまれ、精緻・厳格に検討しよう。連続 的同一性とは、差異=微分 であり、虚構に過ぎない。つまり、真正な事象には、存在 しない、ヴァーチャル なものである。では、実際の→同一性を分析的にみてみよう。

 零度差異共振 シナジーによって、諸・不連続的差異 が連結し、連続 化し、同一性となる。ここで、作業仮説であるが、諸・不連続的差異 が、それぞれ、同一性になるとしよう。つまり、差異1、差異2,・・・差異nが、すべて、同一性になるということである。つまり、差異k=同一性(連続 的同一性)【差異k→同一性が正確である】である。しかし、この多数の同一性・連続 的同一性の集合連続 体自身が、一つの連続 的同一性体を形成していると考えられるのである。ということで、差異k→同一性の連続 的集合体として、連続 的同一性体を考えることができる。(これから、→を連続 的同一性志向性を意味 する記号としよう。)差異k→同一性→同一性体となる。

 私が、これまで、連続 的同一性と呼んだものは、=同一性体(同一性個体)のことである。では、不連続 的同一性とは何かとなると、当然、→同一性体(同一性個体)のことである。簡単に言えば、→である。つまり、志向性には、差異即非共立性・差異共振 シナジー性があるということである。メディア 界があるということである。始点が存しているということである。根源が存しているということである。

 ということで、同一性の問題は、→(志向性)があるか、否かの問題なのである。近代主義とは、この→を否定・無化した観念体系であると言えるのである。結局、連続 ・同一性主義ないし連続 ・同一性中心主義である。これで、同一性の問題は解決したとしよう。

 では、→を否定・無化した近代主義は、この否定によって、どういう事象を引き起こすのかという原理的問題がある。実際的結果は、超大惨事 ・破局・悲劇・悪夢 であったことは、否定できない。理論 的に考察 しよう。→を否定・無化することは、自然 の根源的力=エネル ゲイ アを否定することになるのである。すると、当然、根元的力がブロック されるので、反動 的力が作用するのである。反作用である。この反動 的力が暴力 なのである。社会学 的に言えば、ホッブズ の万人の万人に対する戦争 である。あるいは、狂気である。パラノイア や人格障害 のような精神 病理・狂気である。そして、近代資本主義 の攻撃力である。つまり、資本 を連続 ・同一性化したために、資本 のもつ差異的エネル ゲイ アを否定しているので、暴力 ・狂気・非合理主義的な連続 ・同一性主義的資本主義 が生まれたのである。西欧・米資本主義 とは、このようなものであり、植民地主義 、帝国主義 、冷戦 、等々を生んだのである。結局、近代という時代は、人類史において、最悪の時代として記録されるのは、確実である。《悪魔 》が支配したのであるから。

 とまれ、今や、大局的に見ると、否定・無化された→が復活し、ポスト ・西欧近代のエポック 、即ち、新東洋文明の黎明期 を迎えているのである。反動 であったフランス・ポストモダン もとっくに終焉して、今や、真のポスト ・西欧近代、ポスト ・ウェスタン ・モダン である。ネオ ・プロト モダン である。ネオ ・ルネサンス である。東洋ルネサンス である。

 しかしながら、現代日本は、世界でいちばん、近代主義に汚染されて、超倒錯の社会 になっているのである。近代狂人 たちの社会 なのである。近代狂気から覚醒しないといけない。

f:id:sophiologist:20061102172928j:image

http://www.zion-jpn.or.jp/pics/k02.jpg

 狂気近代日本からのエクソダス である。今や、新東洋文明という約束の地が見えたのである。ピスガ山越えである。そう、ヘルダーリン 、キルケゴール 、メルヴィル 、ニーチェ 、フッサール 、鈴木 大拙 、西田幾多郎 、ウスペンス キー、D.H.ロレンス 、折口信夫 、多くの天才たちが、ピスガ山に達して、新たな約束の地である新東洋文明を指し示していたのである。

Overcome Continuous Identity Modern!

Practice and Realize Exodus

from the Most Insane Modern to New Orient !


http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20061103

から
posted by sophio at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 新東洋文明 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

連続的差異と同一性:近代の終焉と新東洋文明

今は、簡単に触れるに留めるが、私が問題にしたいのは、先に述べた不連続的同一性と連続的同一性の問題である。領域で言えば、メディア/現象境界の事象である。これは、正確には、不連続的差異論の問題であるが。同一性の問題に関して、重要な問題なので、精緻に考察したい。
 端的に言えば、差異=微分の連続体・積分に基づく同一性と不連続的差異の同一性(特異性の同一性)の問題である。もっとも、これは、不連続的差異論の成立の基礎になった問題で済んでいるものではあるが、近代科学の問題に関係するので、ここで取りあげるのである。ここで、図式化すれば、☯→=が、メディア界から現象界への図式図である。Kaisetsu氏の自己認識方程式を使用すれば、(i)・(-i) ⇒1である(この記号の方が、内在超越性ないし超越次元性を提示できるので、的確である。もっとも、Kaisetsu氏は、一人称と限定して、厳密化しているが。)。差異=微分ないし連続的差異という虚構・仮構は、☯ないし(i)・(-i)という事象を認識せずに、連続同一性とその集合を意味するのである。連続同一性を、ci(continuous identity)とすれば、ciの連続・集合体として根源界があることになるのである。ci, ci, ci, ・・・ci が、連続同一性集合体である。そして、これを積分したものが現象的同一性である。∫ciである。ここでは、連続同一性のciが共通単位となったいるのである。
 しかし、☯ないし(i)・(-i)という事象においては、当然、ciは存しないのであり、差異1☯差異2☯・・・☯差異n(思うに、差異1(i)・(-i)差異2(i)・(-i)・・・(i)・(-i)差異nと表現できるのではないか)が存在しているのであり、ここにあるのは、個々別々の不連続的差異の極性共立即ち即非である。どこにも、ciは存しないのである。ただし、即非的同一性が形成されるだろう。→=ないし⇒1である。これを私は、先に不連続的同一性と呼んだのである、ciが連続的同一性であるのに対して。
 フッサール現象学にも通じるが、近代科学は、ciをベースにして、それを数量形式=「物質」形式化して成立しているのであり、☯ないし(i)・(-i)という事象、あるいは、志向性を認識していず、無視している結果になっているのである。結局、差異=微分=連続的同一性=「物質」形式が、近代科学、唯物科学の基礎・基盤・大前提なのである。
 問題は同一性である。近代科学の同一性(ヘーゲルの観念形式)だと、個物・個体は、一般的個体になり、特異性を喪失しているのである(参考:ヘーゲル哲学:個別性は一般性である。)。ここでは、唯名論的個物・個体が、実念論的観念と一致するのである。これは、まったくの画一性、機械的同一性である。この連続的同一性が、近代的現代を支配しているのである。資本主義も、連続的同一性資本主義なのである(有り体に言えば、金融資本主義である)。そして、これを、フッサールは晩年の『ヨーロッパ諸学(諸科学)の危機と超越論的現象学』で説明していると考えられるのである。
 私が言いたいのは、事象は、不連続的同一性、特異性的同一性であるのに、それを、連続的同一性であると誤解していることである。これは、フッサールの『危機』を不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の視点から言い換えたものである。つまり、現象という事象としての「もの」は、不連続的同一性=特異性的同一性であるにもかかわらず、近代的人間は、それを、連続的同一性として誤謬して見ているということである。つまり、近代科学幻想で、現象を見ているのであり、真の現象事象を看過されているということなのである。生活世界は、この真の現象事象を経験したものにほかならないだろう。近代主義は、連続的同一性幻想・妄想・狂信なのである。
 今や、近代は、完全に、終焉したのである。これが、ポスト西欧近代主義ないしポスト近代西欧主義である。では、いったい何が、ここで、出現したのだろうか。コスモス、プラトニック・シナジー界、メディア界、「玄牝」・太極(陰陽太陽)、等が出現しているのである。新たに、古代、東洋、アジア、母権制が復活しているのである。新しい古代ー東洋ーアジアー母権制である。新しいコスモス、新しいガイアである。新しい多神教である。新しいイシス・オシリスである。私は、
新東洋文明と呼びたい。
posted by sophio at 02:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 新東洋文明 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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