2006年11月06日

−(-i)の最初の−はどこから発したのか:同一性自己=自我の発生構造について

詳しくは後で論じたいが、この−(マイナス)の原因が分かれば、人間の問題は、ほぼ解決したと言えるだろう。この−のために、人は苦しんでいるのである。そう、この−は、《悪魔》と呼んでいいのであるが、どこから、この《悪魔》が人類の精神にやってきたのかである。

 先の考察は、「メディア界」からの能動的な1/4回転で、⇒−1(近代的自我)が生起すると考え、そして、反転による差異の活性化によって、近代的自我(同一性自己)と差異(的自己)とが分裂すると考えたのである。この考え方の問題点は、能動的な1/4回転を理論化できないことである。

 だから、ここで、再び、直観考察(直観推理)しよう。問題は、⇒+1である。即ち、(+i)*(-i)⇒+1の⇒ +1である。ここでは、自己と他者とが共立することで、差異としての自己となっている。これは、また、特異性の自己と言ってもいいだろう。ルネサンスの個とは、この数式があてはまるのである。デカルトだけでなく、スピノザ哲学もこれで説明できるだろう。というのは、(-i)に能動的観念を含むことができるからである。

 問題は、同一性の現象化である。主観の同一性化である。ここで精緻・厳密になるために、用語を確定しないといけない。「メディア界」の極性は、不連続的差異の極(イデア極)と同一性の極(現象極)がある。そして、同一性への展開として、現象化が出現するのであるが、これを同一性現象化と呼ぶと、ルネサンス的個という同一性現象化は、(+i)*(-i)⇒+1の+1で記述されると考えられる。⇒+1とは、だから、差異的同一性ないし特異性的同一性を意味しているのである。

 しかるに、近代的自我のもつ同一性は、当然、これではなくて、先に述べたように、(+i)*-(-i)⇒−1と考えられるのである。つまり、内的差異である(-i)を否定した、無差異的同一性である。ここで明快しておけば、数値の1が同一性である。そして、+1が、差異的同一性ないし自己である。次に、 −1が、反差異的同一性ないし自我である。これで、用語は整理された。

 では、本テーマを考えよう。どうして、−(-i)の最初の−が発生したのか。この問題は、以前からのアポリア(難問)になっているのである。これまでは、結局、優秀な差異と低劣な差異の二種類の差異があるということで説明してきたのである。優秀な差異とは、(+i) *+(-i)を維持する自己である。低劣な差異とは、それを維持できず、+を−に替えてしまうということになるのである。

 この+(-i)の+とは何だろうか。スピノザ的に言えば、当然、能動的観念に関係する能動性であろう。思うに、−(-i)となるような状況に対して、優秀な差異(優秀な自己と言った方がいいだろう)は、+(-i)を保持する能動性をもつのである。つまり、差異共振シナジー性を保持しようとするのである。

 「− (-i)となるような状況」とは何だろうか。これは、内的他者の否定である。内的他者を否定する状況とは何だろうか。これは、端的に言えば、殺すことではないだろうか。生きるため、生き物を殺さなくてはならないのである。ここで、内的他者を否定する必要があるのである。あるいは、隣人や、外部の者の所有物を盗む、奪う必要がある状況である。例えば、飢渇の状況にあるとき、「わたし」は、生物を殺したり、隣人や外部の人間の食物を奪ったりするだろう。「−(-i)となるような状況」であろう。言わば、極限状況における生存のための暴力行使である。人食い(カニバリズム)も、当然、ここから発生するだろう。無情・残忍・冷酷・無惨、等々の生存意志である。(参照:武田泰淳『ひかりごけ』)

 古代においては、これに対して、儀礼を行い、償いをしたと言えよう。贖いである。つまり、-(-i)の行為に対して、補償行為として+(-i)行為を、おそらく、過剰な行為を行ったと考えられるのである。おそらく、供儀(くぎ)は、ここから発生しただろう。そして、社会共同体の掟・道徳・倫理・コードが発生するのである。

 しかし、近代的自我の発生の場合は、明らかに、この社会共同体的コードが崩壊した状況にあったと言えよう。人間は生きるために、「−(-i)となるような状況」が必然的に伴うのである。だから、それを償うために、社会で、「共同体」の儀礼・道徳・コード等を定めて、いわば、「メディア界」の倫理を保持したのである。この「メディア界」の倫理のために、「−(-i)となるような状況」が生じても、+(-i)に回帰できたのである。これが、人類社会を保持してきたと言えよう。

 しかし、近代的自我の発生する時期は、社会コードが崩壊した環境にあったのである。つまり、社会倫理、「メディア界」倫理が崩壊した環境にあり、「−(-i)となるような状況」に対して、それを倫理的に補償することができなくなっていたと考えられる。つまり、「−(- i)となるような状況」は、そのまま、継続されるのである。だから、自己が、(+i)*-(-i)⇒−1という近代的自我になったのである。即ち、+(- i)の倫理が喪失されてしまっていたのである。言い換えれば、差異の倫理、他者の倫理、「メディア界」倫理が喪失した状況・社会環境にあったのである。この倫理は、当然、エネルゲイアとしての倫理でなくてはならない。強制力をもつ倫理でなくてはならない。

 思うに、近代化が一番先に生じたと考えられるイギリスにおいて、共同体の破壊が、囲い込み運動によって起こる。その共同体の破壊、即ち、社会倫理の崩壊によって生じた−1の人間を、シェイクスピアは、とりわけ、『リア王』によって描写していると考えられるのである。文学研究においては、二つの自然ということが『リア王』について、昔、言われた。即ち、リア王の体現する「自然」(位階的王権秩序)とエドマンドの体現する「自然」(無頼・無法者・悪人:つまり、物質的自然:ホッブズ的自然)である。後者にリア王の酷い娘達(ゴネリル、リーガン)が入るが、彼女達は、末娘のコーディリア(父思いの娘)と好対照である。劇中のある人物がどうして、同じ母からこのような異なる娘が生まれたのかと述べているのであるが、この二つの自然とは、実は、ここで述べた「共同体」の崩壊によって生じたと考えられるのである。シェイクスピア悲劇とは、近代の悲劇、封建的共同体の崩壊の悲劇、即ち、(i)*-(-i)⇒−1の、没倫理の悲劇なのである。ホッブズの社会哲学が生まれたのも、当然と言えよう。(ついでに言えば、イギリスで、このような没倫理化が起こった原因は、単純化すれば、プロテスタント化だと思う。カトリック的宗教権威が衰退して、物質主義的権力が強化されたことだと思われる。できれば、後で、さらに検討したい。)

 最後に、現代日本の「自己愛性人格障害」(近代的自我狂気症候群)であるが、これは、ここで述べたことがそのままあてはまるだろう。社会倫理の崩壊があるのであり、それが、(i) *-(-i)⇒−1という近代的自我を蔓延させたのである。日本の社会倫理の崩壊とは、一つは排仏毀釈のような神仏分離、そして、一つは戦後の唯物科学教育に、イデオロギー的には、拠ると言えよう。とりわけ、後者の唯物科学と結びついた唯物資本主義によって、経済的に引き起こされたと言えよう。

参照:

『近代の誤り⇒倒錯・『物の優位』という過ち』

http://theory.platonicsynergy.org/?eid=401706

Theories for the Platonic Synergy Concept.
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