2006年10月30日

(i)・(-i)というプラトニック・シナジー界の内包する意味:イデア界の位置づけと二つの同一性

先にKaisetsu氏が提起された自己認識方程式、即ち、(i)・(-i)⇒1は、オイラーの等式や黄金比、等に匹敵する、否、それ以上の根源的方程式・公式のように思える(p.s. 即ち、大発見である)。とりわけ、(i)・ (-i)の部分である。これは、不連続的差異論のメディア界を指すが、プラトニック・シナジー理論では、零度差異共振シナジー界、即ち、プラトニック・シナジー界を意味する数式であると考えられる。換言すると、ここに、プラトニック・シナジー理論のエッセンスが凝縮されていると言っても言い過ぎではない。
 私は、ここから、不連続的差異論のイデア界との関係、あるいは、空間、時空間の問題を考察したいと思っている。イデア界との関係は、用語の問題が少しある。プラトンのイデアとは、ほぼ、プラトニック・シナジー界の「イデア」であると思えるのである。だから、区別するために、「メディア」という用語を使うべきかもしれないが、これも、混乱させる恐れがあるのである。
 とまれ、たとえば、プラトン的に、花のイデアとは、プラトニック・シナジー界に存すると言えるのである。花のイデアとは、デュナミスであり、また、エネルゲイアである。(ちなみに、アリストテレス哲学の問題は、超越次元を無視しているところである。プラトンの超越次元を、プラトニック・シナジー理論では、虚軸を、無視しているのである。)そして、花のイデアのあるプラトニック・シナジー界とは、プラトンのコーラ(形態形成場と考えられる)に相当するし、西田哲学の場所も、ここに相当するだろう。また、当然、鈴木大拙の即非論理学の位置(トポス)もここである。(思うに、ドゥルーズ&ガタリは、離接という概念を提起したが、それは、とりもなおさず、即非の論理のことである。しかし、彼らの不十分さは、離接を内在平面に置いていることである。内在平面とは、プラトニック・シナジー理論から言うと、プラトニック・シナジー空間、即ち、メディア空間の連続・同一性平面である。差異=微分空間である。これは、即非空間ではないのである。ところで、今思ったのは、同一性と連続的差異とは異なるのではないかということである。これについては、後ほど検討したい。)
 では、イデア界とは、プラトニック・シナジー理論から見たら、どう位置づけられるのだろうか。Kaisetsu氏のガウス平面的プラトニック・シナジー理論から見ると、虚軸が、プラトニック・シナジー界であり、実軸が現象界(「現実」界)であり、現象界を空間三次元とすると、虚軸が時間軸であり、それで、時空四次元が形成される。いわば、プラトニック・シナジー四次元時空間である。
 では、イデア界を付け加えるには、どう考えたらいいのだろうか。これまでの考え方では、イデア界のX軸の1/4回転で、メディア界のY軸が形成されると考えてきた。しかし、今では、X軸実軸は、現象界のことになっているのである。私は、先に二種類の1/4回転があるだろうと述べた。第一番目の1/4回転が、イデア界からメディア界を形成し、第二番目の1/4回転が、現象界を形成するという考え方である。そうすると、第五次元以上を考えることになる。作業仮説的に、プロトX軸、原X軸を考えれば、それが、イデア界になるだろう。あるいは、X軸をイデア界、Y軸をプラトニック・シナジー界、Z軸を現象界として考えることができるのではないだろうか。そうすると、プラトニック・シナジー界(メディア界)と現象界は、Y軸とZ軸との関係になると考えられる。
 ならば、イデア界は、X軸であり、XY平面とYZ平面の二つのガウス平面が生起するのではないだろうか。用語・概念の問題であるが、プラトニック・シナジー平面(メディア平面)は、YZ平面であり、イデア平面はXY平面になるのではないだろうか。
 とまれ、この空間視点から、上記した同一性と差異=微分の問題を考えると、思うに、同一性ないし連続・同一性とは、Z軸上の実数であろう。しかし、差異=微分の考え方とは、虚軸Y軸の即非論理を認識せずに、虚軸Y軸に連続的差異を想定していると言えるだろう。つまり、虚軸Y軸と実軸・現象軸・Z軸との直交関係を否定して、両者を一様のものとしているのである。つまり、虚軸と実軸の不連続性ないし内在超越性を認識せずに、連続・内在性を見ているのである。つまり、連続的差異の展開としての同一性である。連続的差異とは、内在平面に存すると、ドゥルーズは考えているのである。だから、この視点の同一性とは、連続的差異的同一性である。
 しかるに、プラトニック・シナジー理論における同一性とは、(i)・(-i)の即非的極性における同一性であるから、不連続的差異的同一性なのである。私が眼前に見るリンゴは、不連続的差異的同一性、あるいは、特異性的同一性のリンゴなのである。これを連続的差異的同一性のリンゴと見たら、唯物論である。唯物科学・量子論的リンゴとなるだろう。両同一性は、似て非なるものである。簡単に表記すれば、連続的同一性と不連続的同一性である。これは、まったく別のものである。どうも西洋哲学ないし哲学一般は、両者を区別して来なかったように思える。唯名論と実念論の問題、即ち、個物と観念の問題、あるいは、アリストテレス哲学とプラトン哲学の問題、唯物論と観念論の問題、等々。この問題は、現象界と超現象界の問題に還元することができるだろう。つまり、二項対立、二元論なのである、現象界主義か超現象界主義か、の問題にされてしまったのである。個物かイデアか、ということになるのである。ヘーゲルは、これを統一しようとして、弁証法を構築する。しかし、それは、連続的差異=観念の統一仮説であり、一般形式理論なのである。ヘーゲルは、個物は、同一性であるとして、この同一性観念から統一を志向するのである。しかし、この同一性は、不連続的同一性ではなくて、連続的同一性である。特異性が喪失されているのである。(特異性は、キルケゴールが宗教批判として展開することになった。)
 連続的差異論とは、言い換えると、アトム論である。現象の個体・個物の根源要素として「アトム」を考え、これが、連続して個体・個物が形成されるという考えである。単位の連続的集合としての個体・個物である。そして、この連続論においては、唯物論も観念論も同形である。連続的形式が共通なのである。つまり、唯物論とは、個物の連続的形式として物質を考えるのであり、観念論とは、個物の超次元としての連続的形式としての観念を想定するのである。つまり、西洋哲学は、特異性ないし単独性を看過しているのであり、これに対する批判が、キルケゴール、ニーチェ、フッサールによってなされたと言える。東洋からの批判者としては、鈴木大拙や西田幾多郎がいるのである。また、ロシア(ロシアは、ユーラシアと見ないといけないだろう)からは、ウスペンスキーが出たのである(『地下生活者の日記』のドストエフスキーも、これに近いだろうが、ドストエフスキーの発想は、シュティルナーの唯一者と共通すると考えられるのである。つまり、一見単独者であるが、それは、エゴイストである。つまり、(i)・(i)=−1と思われる。後で検討。)
 そして、フランス・ポストモダン(このように言えば、ポスト・モダンの用語はプラトニック・シナジー理論の発見の後でも、使用できる)は、これを発展するはずであった。とりわけ、ジル・ドゥルーズは、特異性singularityに注目して、差異哲学の創造を目指したのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論の成立の経緯からわかるように、ドゥルーズの差異理論は、たいへんな誤謬を犯していたのである。ポスト・ヘーゲル、即ち、ポスト・モダンという思想環境にありながらも、ドゥルーズは、連続的差異、即ち、ヘーゲルに戻るという反動行為を犯してしまったのである。そう、ドゥルーズ理論は、大反動であり、際物理論である。非常にたちが悪いのである。なぜなら、特異性singularityと言いながらも、連続的差異(差異=微分)を主張しているからである。これは、虚偽的誤謬である。ペテンである。
 さて、本論にもどると、結局、西洋哲学は、連続的形式に拘束されていたが、ポスト・ヘーゲル=ポスト・モダンとして、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、鈴木大拙、西田幾多郎、ウスペンスキーらが出現して、不連続論を提出し、ポスト・モダン環境を構築したのである。しかし、これは、フランス・ポスト・モダンという大反動によって、目隠しされてしまったのである。日本においては、フランス・ポスト・モダンを信奉する唯物論的知識人たちによって、ポスト・モダン環境が排除・隠蔽されてしまったのである。(私見では、真正なポスト・モダンに近づいたのは、柄谷行人であろう。しかし、彼は、唯物論者で、差異・「イデア」を把捉・理解できなかったのである。また、中沢新一であるが、彼は、ドゥルーズ主義者であり、似非理論家である。)そう、ポスト・モダンは、フランス知識人によって、葬られてしまったのである。似非ポスト・モダンであったのである。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダンの本流を復活させて、進展させたのであり、これは、連続的差異論を批判・否定して、不連続的差異である特異性のイデア論の創造的発見である。だから、本論にもどると、二つの同一性があるのであり、これを区別しないといけないのである。不連続的同一性と連続的同一性である。数式化すると、(i)・(-i)⇒1という同一性と(i)・(-i)=1という同一性である。このように考えて、先の私の考察の複雑さ、微妙さがわかるのである。具体的に言えば、眼前の柿一個であるが、これは、正しくは、不連続的同一性である現象、(i)・(-i)⇒1である。これに対して、それを連続的同一性である現象、(i)・(-i)=1と見れば、仮象である。
 さて、このよう現象同一性を見ると、プラトンのイデア論はどうなるのだろうか。現象界はイデア界の仮象であると考えているのである。(i)・(-i)から見れば、確かに1という同一性は仮象になるだろう。しかし、(i)・ (-i)⇒1から見たときは、どうだろうか。⇒1は、仮象なのだろうか。1は仮象ではなく現象である。本象であろう。思うに、ここには、プラトンのイデア論とプラトニック・シナジー理論の差異があるのではないだろうか。前者は、現象仮象論であるのに対して、後者は現象本象論である。眼前のリンゴ一個の同一性は否定すべくもないのである。これを仮象としたら、生活は成り立たないのである。この点についは、後でさらに検討したい。
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