2006年10月28日

「イデア」(=差異共振イデア)と「物質」との関係:あるいは、「物質」とは何か:「もの」と物質V4

Kaisetsu氏の以下の論考は、コメントされているように、本件の考察と共通するものがある。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10018941143.html#c10031001140
一言で言えば、メディア界ないし差異共振シナジー界と現象界との非対称性である。これは、まず、確認しておくべきことである。非対称は、不連続と呼んでもかまない。この絶対的断層は、実に根本的な論点であり、これをこれまでの、ほとんどの哲学/科学(例外は、キルケゴールやニーチェやフッサールや鈴木大拙やウスペンスキーである。西田幾多郎も含めていいかもしれない)は認識せずに、連続性の理論に留まり、袋小路に入ってしまったのである。そして、不連続的差異論を包摂したプラトニック・シナジー理論は、この例外の理論を総合し、さらに進展し続けているのである。

 さて、本件の問題をさらに続けたい。同一性と現象というテーマで検討したい。先の論考では、同一性は同一性仮象ということになった。少し不分明であるのは、同一性自体の意義である。果たして、同一性という事象が存しているのか、それとも、それは、単に仮象ないし虚構に過ぎないのか、という問題があるのである。あるいは、仮象や虚構とは何かという問題でもある。
 ここでも、私の直観から話を進めよう。私は、個体は特異性であると考えている。例えば、眼前の一個のリンゴは、特異性なのである。その隣にあるリンゴも特異性である。では、リンゴという事象自体は、何なのか。明らかに、同一性である。(先に、リンゴという事象において、同一性と特異性が併存・共立していると述べた。)そして、また、同一性は仮象であると述べた。即ち、同一性仮象と考えた。結局、同一性と同一性仮象とが併存していることになるのである。どちらが、正しいのか、それとも、・・・。
 考察を簡単にするため、もっとも単純に図式化しよう。

リンゴの「イデア」:差異1☯差異2

リンゴの現象:差異1☯→=差異2 (又は、差異1☯→ー差異2)

としよう。ポイントは、☯→=(ないし☯→ー又は☯→ー・=)にあると言えよう。同一性としてのリンゴは→=ないし=である。特異性としてのリンゴは、差異1☯→=差異2総体にあると言えよう。→=と=は、微妙な点である。特異性としてのリンゴの同一性とは、前者、すなわち、→=ではないだろうか。そして、日常、同一性としてのリンゴを意識する場合は、=であろう。
 そうならば、現象としてのリンゴは、どちらなのだろうか。それは、両方考えられるだろう。特異性における同一性ならば、→=であるし、単なる同一性ならば、=であろう。現象界においては、両者が混淆ないし共立・併存していると言えるだろう。
 では、本論の仮象の問題であるが、同一性とは仮象なのであろうか。同一性は現象ではある。これも微妙な問題である。リンゴの「イデア」の現象としてのリンゴの同一性は仮象ではなく、「イデア」のもつ現象という側面である。それは、いわば、本象(ほんしょう)である。「イデア」が本体であるとすれば、本象としての同一性現象である。仮象ではないのである。
 では、何故、仮象という考えが出てくるのか。それは、単なる現象としての同一性を見たときに、生起する考えであろう。つまり、「イデア」を喪失して、単に現象のみを考えるならば、現象は仮象となるのであろう。結局、同一性は、仮象か現象かの問題は、視点・コンテクストに拠ることになったのである。
 さて、次に、ここで得られた観点から、近代科学、唯物科学・物質主義科学について考察しよう。それの問題は、「イデア」を否定して、単に現象のみを本体とし、それを数量的に総合化する点にあると言えよう。つまり、「イデア」理論ないし「イデア」科学から見れば、仮象理論、仮象科学である点が問題なのである。つまり、同一性中心主義であり、同一性を数量・定式化・総合化して、現象を説明している点である。完全に、差異や「イデア」を否定して、同一性現象=物質として捉えているために、説明できない現象が多く生じているのである。精神現象・心的現象・宗教現象、量子力学の非局所性、ダークエネルギーやダークマター、気の現象、共時性(シンクロニシティ)、存在現象、等々が説明できないのである。そして、明らかに、行き詰まっているのである。いわゆる、ニューサイエンス、ニューエイジ・サイエンスにしろ、物質科学と精神・宗教現象との折衷で終わっているのである。つまり、つまり、量子と精神を、類似性から、等価して、理論的整合性は不問のままで終わっているのである。
 結局、唯物論か「イデア」論かである。そして、プラトニック・シナジー理論は、後者の立場で、多くのアポリアを解決し、また、しつつ、あるのである。
 最後に、同一性の問題に再度触れると、近代主義とは、同一性中心主義であり、差異を喪失した思想であると言えよう。ポストモダン、ポスト近代とは、だから、ポスト同一性中心主義であり、差異主義なのである。しかるに、これまで、執拗に繰り返し述べたように、いわゆるポストモダン運動は、同一性との連続した差異を考えていたために、まったく不十分なのであった。ポストモダンの原点であるキルケゴールやニーチェやフッサールの理論、あるいは、鈴木大拙の理論には、ポスト連続的差異の理論があったが、それを認識できなかったのである。おそらく、ポストモダンの流産ということが言われるはずである。これは、きわめて、由々しき問題である。後で、検討したいが、簡単に述べると、連続性の思想とは、これまで、述べたように、全体主義やファシズムの思想である。これは、右翼・左翼を問わない。共産主義・社会主義にも関係するのである。そう、近代的自我、近代合理主義に関係するのである。換言すると、同一性連続主義である。これが、近代主義や通俗のポストモダンを拘束していたものである。コギトとは、本来、特異性である。これが、同一性中心主義へと展開していったのである。思うに、デカルト哲学自体が、矛盾しているのである。コギトの哲学は、特異性の哲学であるが、いわゆるデカルト合理主義は、同一性中心主義である。つまり、まったく異質な理論をデカルト哲学ははらんでいたのではないだろうか。コギトは、特異性自己であり、その展開として、同一性自己が発生するのである。この同一性自己と同一性中心主義が結びついて、いわゆるデカルト合理主義となったのではないだろうか。カントは、デカルトの同一性自己→同一性中心主義の側面を超越論的形式としたのであり、コギトの特異性や現象の特異性は、実践理性や物自体に留めたと言えるだろう。コギトの特異性を深化させたのは、キルケゴールやニーチェやフッサールであったと言えるだろう。(作家や芸術家は除いておく。メルヴィルやD.H.ロレンスはコギトの特異性の作家であるが。)あるいは、仏教哲学者の鈴木大拙や西田幾多郎がそうである。
 おそらく、近代哲学、近代理論の不幸が言えるだろう。ルネサンスは、ネオ・プラトニズムをもっていたが、それを、哲学に活かしたのは、おそらく、スピノザぐらいであろう。ただし、ネオ・プラトニズムは、流出論であり、連続論であるのに注意しないといけない。つまり、問題は、近代におけるイデア界ないしイデアの次元である。ルネサンスにおいては、イデア界やイデアの次元があったが、それを、科学理論的には喪失していったのである。やはり、科学理論におけるアリストテレス主義の問題があるのかもしれない。あるいは、プラトン主義とアリステレス主義の分裂という西洋文明の問題である。二元論である。唯名論と実念論の分裂。
 とまれ、不連続的差異論そしてプラトニック・シナジー理論によって、西洋文明の二元論は、完全に超克されたと言えるのである。ポスト西洋文明であるが、新東洋文明なのか、それとも新東西文明なのか。思うに、東西文明の分離自体が怪しいのかもしれない。
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