2006年11月26日

近代的自我の発生の原因とルネサンス:自己認識方程式の視点から テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義

明日野氏の卓越した一人称自己認識方程式e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1をまず前提として確認しておこう。(これ以前は、(i)*(-i)⇒+1である。)
 私の問題にしたいのは、i-i=0のところである。これは、差零度共振を意味すると考えられる。そして、これは、自己e^iと他者e^(-i)を知る本来の自己認識である。
 私の考えは、e^i⇒e^(-i)の陽意識と逆のe^(-i)⇒e^iの陰意識があるというものである。簡単に言えば、自己⇒他者、他者⇒自己である。そして、前者、陽意識(+エネルゲイア)は、光と関係する。例えば、遠近法がこれに当たるだろう。しかし、後者、陰意識(−エネルゲイア)は、闇と関係する。簡単に言えば、前者は、普通の意識であり、後者は、言わば、無意識である。そう、明意識と暗意識と言ってもいい。
 ここで、e^i⇒e^ (-i)を単純化して、i⇒-iとし、また、e^(-i)⇒e^iを、-i⇒iとして考えることにする。i⇒-iの解釈であるが、これは、他者への志向性でもあるが、ここで、知覚が生じて、何らかの言語を-iに与えると思うのである。(太古においては、言語ではなくて、絵文字のようなもの、音声言語のようなものを与えていたであろう。)思うに、言語を他者に与えて、同一性化するのである。ここで作業仮説として、言語=−1とすれば、i⇒−1・(-i)=i となるのである。つまり、i=iという図式である。思うに、これが自我の数式であろう。つまり、他者である-iを自己iと解釈するのである。(ここで、言語=−1の発生の意味は次の考察の中から考えよう。)
 次に、陰意識・暗意識のことを考えると、これは、他者から自己への志向性なのである。これは、換言すれば、他者の眼、他者の視線と言ってもいいだろう。思うに、原初の自己は、とりわけ、この陰意識・暗意識を恐れたであろうと思われる。これは、他者から自己への志向であるから、自己は基本的には、受動であるしかないのである。陽意識が能動性であるのに対して、陰意識は受動性である。(おそらく、物の怪とか、アニミズム、シャーマニズム等は、後者的表現であろう。)
 思うに、近代以前は、両者の双方向関係から世界観が生まれていたのである。陰意識に「霊」とか、「魂」とか、精霊、等々と名づけたのである。つまり、陽意識と陰意識は、交流して、世界観を形成したのである。いわゆる、コスモスというのも、ここから生まれた宇宙観であろう。しかしながら、正しく言えば、例えば、中世においては、陽意識より陰意識の方が強く、この強い陰意識の上にキリスト教が成立していたと考えられよう。そして、ルネサンスが起こり(中世において、例えば、12世紀ルネサンスがあるが、それは、先駆と見ればいいだろう)、陽意識が活性化されたと考えられるのである。つまり、自己の能動的意識 i⇒-iが賦活されたと考えられるのである。つまり、中世においては、-i⇒iの陰意識(暗意識・闇意識)が優勢であったが、ルネサンスになり、逆転して、i⇒-i の陽意識(明意識・光意識)になったと考えられるのである。これは、正に、革命・革新・進化である。陰から陽へと転換したのである。おそらく、人類史において、このような陰から陽への転換は繰り返されたに違いない。古代ギリシアが代表的なものであろうし、他の古代文明期においても、類したものがあったのであろう。
 とまれ、ルネサンスないし近代(プロト・モダン)にもどると、能動的な陽意識が、おそらく、爆発的に賦活・活性化されたのである。そして、芸術的には、イタリア・ルネサンスという偉業を生み、哲学的には、デカルト哲学を生んだと言えよう。能動的な陽意識がコギトの原点なのである。しかし、注意すべきは、ルネサンスないし近代初期においては、単に陽意識があったのではなくて、それまでの、陰意識を伴っていたと考えられることである。否、正しく言えば、新たな陽意識の賦活とは、新たな陰意識の賦活と見ていいだろう。つまり、陰と陽の両極性が活性化されたと考えられるのである。これが、ルネサンス哲学が、神秘哲学やコスモス哲学になったことの要因であると考えられるのである(参照:マルシリオ・フィチーノのネオプラトニズム)。また、オカルト思想が流行した理由もここにあると考えられるだろう。そして、デカルト哲学(コギト・エルゴ・スム)において、コギトは、能動的陽意識であり、スムは、受動的陰意識であろう。つまり、e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1である。しかし、その後、コギトの陽意識に限定されて、陰意識が否定されていったのである。いわゆる、近代合理主義である近代科学・技術・資本主義の前進である。
 以上のように考えると、アポリア(難問)である、何故、差異が否定されたのかということを考察してみよう。ルネサンスにおいて、陽意識と陰意識の均衡が取れていたはずである。しかし、近代合理主義(近代的自我、近代唯物論)は、前者中心に、後者を否定していったのである。これまで、反差異的同一性を近代合理主義に見てきたのであるが、どうして、この、いわば、怪物が生まれたのかである。先にも述べたが、デカルトが明晰な判明な観念を求めて、あいまいなものを排除したことが起因ではないだろうか。つまり、能動的陽意識に傾斜したのである。この光意識は、+エネルゲイアをもち、-iである他者を+化するように思うのである。つまり、ここに-iに対する−作用があると推察されるのである。つまり、+エネルゲイアとは、反差異的同一性作用であると考えることができるのではないだろうか。(逆に言うと、−エネルゲイアも反差異的同一性作用だろう。つまり、(-i)*(-i)⇒−1である。)そのように考えられるならば、何故、近代的自我のもつ反差異性の発生したのかという理由は自明となる。
 ここで、整理すると、原近代(プロト・モダン)において、陽意識と陰意識の両極性が賦活されたのである。換言すると、コスモスが発動したのである。しかしながら、デカルト哲学は、もともと、原近代を基盤としているが、陽意識・+エネルゲイアに傾斜したため、陰意識・−エネルゲイアを否定してしまったということである。そして、この路線が近代合理主義となったのである。デカルトの後、スピノザが出て、陰意識を取り込んだ哲学を創造したのである。(ライプニッツは、予定調和という観念で、陽意識が強かったと言えよう。)だから、デカルト/スピノザ哲学と、本来理解することで、「ポスト・モダン」となると考えられるのである。そう、デカルト自身は、陽意識を徹底する試論を行ったのであり、その点では問題はないのである。ただ、陰意識の探求が不徹底であったということである。
 近代合理主義の発生は単にデカルト哲学の問題だけでなく、他に発生する原因があると考えられるだろう。有り体に言えば、ルネサンス/プロト・モダンとは、太極性の活性化である。あるいは、東洋文明の新生であると言えるのである。宗教的に言えば、異教の再生であると言えるのである。つまり、実は、ルネサンスは、西洋文明にとって都合の悪いものが発生したことになるのである。キリスト教を否定するものが出現したのである。思うに、キリスト教は、陰意識を信仰の次元に変えていたのであり、陰意識の認識をタブーにしていたのである。中世スコラ哲学の頂点であるトマス・アクィナスの理性と信仰の調和がキリスト教としての基本的枠組みであったと言えよう。理性である陽意識は、確かに認めるが、信仰の対象となる陰意識の合理性・理性をキリスト教会は、絶対タブーとしたのである。(これは、イデオロギーと見るべきだろう。民衆支配のイデオロギーである。そう、二つの合理性・理性があるのである。陽意識の理性と陰意識の理性である。)
 結局、ルネサンスは、キリスト教にとってタブーの陰意識を賦活・活性化したのである。そして、デカルト哲学の明晰性とは、この路線に忠実であったと言えよう。デカルト的合理主義は、陽意識を肯定して、陰意識を排除したのである。つまり、キリスト教会のバイアス・イデオロギーが西洋社会・文化に存在するのであり、それが、脱西洋文明的なルネサンス/プロト・モダンを否定して近代主義へと捩じ曲げたと言えるだろう。プロテスタンティズムも、同様の捩じ曲げであると見なくてはならないだろう。
 これで、これまでの最大の難問であった近代的自我の否定性の発生について、自己認識方程式を活用して、整合的に説明できたのではないだろうか。もう一度整理すれば、ルネサンス/プロト・モダンにおいて、差異が賦活・活性化された。それは、陽意識と陰意識の双方を活動させたのである。だから、e^i*e^ (-i)⇒e^(i-i)=e^0=1が生起したのである。しかるに、近代西欧は、キリスト教会のバイアス・イデオロギーがあるために、本来的に、東洋・異教再生であるルネサンスを認めることができずに、否定・排除・隠蔽的に対処したのである。それが、近代合理主義であり、魔女狩りや植民地主義や帝国主義、オリエンタリズム等を生んだのである。東洋・異教復興であるルネサンスを継承したのは、少数の天才たちであった。(そう、スピノザ哲学、神即自然の思想は、正に、東洋・異教新生であろう。これは、ポスト・ユダヤ・キリスト教である。正しくは、ポスト・キリスト教会であろう。)カントは、両者の中間であった。そして、キルケゴールが超越的特異性を復活させ、シェリングが自然と理性との融合した「メディア」界を示唆し、また、ニーチェが近代合理主義やキリスト教を破壊し、フッサールが決定的に超越論的現象学を打ち立てて、超越論的志向性を突き止めたのである(ただし、+エネルゲイア、陽意識の志向性であったろう)。他の分野・領域でも、キリスト教会的発想、陰意識合理性の否定と東洋・異教再生との闘争が闘われたと考えられるのである。そして、ポスト・モダンは、明確なこの闘争であるが、西欧の陽意識の強固さによって、陰意識を完全に解放できずに、不十分な立場に留まってしまったと考えられるのである。(しかし、後期デリダは、ポスト・モダンを哲学的に徹底したように思える。)
 そして、現代日本において、不連続的差異論が誕生して、停滞・衰退したポスト・モダンを前進させたのであり、それから、プラトニック・シナジー理論へと発展したのである。これで、完全にポスト・モダン理論が形成されたと考えられるのである。つまり、新東洋・異教ルネサンスの理論の誕生である。西洋文明の終焉である。(思うに、西洋文明とは何かということになるだろう。それは、東洋文明の一種展開であったと思うのである。それが、イデオロギー的に東洋文明から、切断したのである。しかし、文明自体は、東洋文明が原点であるから、当然、東洋文明は再帰するのである。そして、時が熟して、内在的に東洋文明が復興したのである。そして、プラトニック・シナジー理論が、日本という東洋文明の終点、そして、西洋文明の最大の輸入国において、東西文明を超克する形で、創造されたのは、意味深長である。おそらく、本来、東洋文明も西洋文明もないのである。ただ、差異共振シナジー的人類文明があるだけである。)
 後で、不連続的差異論とプラトニック・シナジー理論との関係を考察したいと思う。思うに、後者は、前者を修正する形の理論なのである。

p.s. 以上から、何故、近代的自我は狂気なのか、という私の長年の疑問も解決されるだろう。近代合理主義は、能動的陽意識中心で、受動的陰意識を否定・排除しているのである。つまり、陽意識のエネルゲイアだけでなく、陰意識のエネルゲイア、−エネルゲイアの発生があるが、それを、陽意識である近代的自我は、否定・排除・隠蔽するのである。しかし、排除された−エネルゲイアは、陽意識に対して、非合理な衝動として発動するのである。これが、狂気なのである。暴力でもあるのである。
 現代日本の狂気シンドロームは、これで説明できるだろう。エクソ・モダンexomodern、これしかないのである。

2006年11月24日

(i)*(-i)の虚空間について:(i)と(-i)の関係の考察:その2

先の考察で、(i)*(-i)【e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=414738
Theories for the Platonic Synergy Concept. 】を(i)⇔(-i)と表記して、双方向の志向性を考えた。陽の志向性と陰の志向性である。そして、また、牽引と反発を考えた。すると、2×2=4種類の様態があるということになるだろう。とまれ、[(i)⇔(-i)]⇒+1となるだろう。つまり、[(i)⇒(-i)]⇒+1と[(-i)⇒(i)]⇒+1ということであろう。双方向の志向性は、+1なのである。おそらく、正確に言えば、⇔の双方向の均衡において、+1があるのだろう。つまり、双方向とは即非なのだろう。
 さて、問題は、−1の場合である。(i)^2ないし(-i)^2が−1である。原自己の二乗、ないし、原他者の二乗が、−1=自我(近代的自我)である。そして、ここで、私は、感情のことも問題にしたいのである。明らかに、−1=自我は、否定感情ないし反動感情的である(いわゆる、感情的とは、理論的には、否定感情・反動感情的と呼べるだろう)。そして、+1=自己は、肯定感情・能動感情をもっていると言えるだろう。あるいは、零度感情・中立感情をもっているだろう。思うに、知性とは、本来、肯定・能動・零度・中立感情を伴っているだろう。おそらく、共感性とは、この感情と通じているだろう。反感は当然、否定・反動感情である。すると、知性とは、肯定・能動・零度・中立・共感感情をともなうことになるだろう。この感情は、即非関係を維持しようとするものである。否定・反動感情によって、知性が曇らなくなるようにするのである。否定・反動感情は、他者を否定するので、当然、即非を否定することになるのである。それは、(i)*−(-i)⇒−1である。これは、既述済みである。
 問題は、−1と言語の関係である。あるいは、(i)*(-i)ないし(i)⇔(-i)と言語の関係である。あるいは、同一性と言語の関係である。これは、作業仮説であるが、言語は、即非関係から生まれたのではないだろうか。
 問題は、とりわけ、同一性と言語である。即非関係において、例えば、私は山と一如である。私は、山であり、且つ、山ではないという即非事象・現象が発生する。このときの、即非関係の「対象」-iである「山」を主体が志向して、「やま」という音声言語が生じるのであるし、文字化して、「山」となるのではないだろうか。おそらく、音声言語は、エネルゲイアの表出であろう。(i)が(-i)を志向するとき、即非における志向性(双方向の志向性:陽の志向性と陰の志向性)において、対象(-i)が、「やま」ないし「山」と表出されるのである。つまり、即非表出・表現としての言語となるのである。つまり、差異的同一性の表現としての言語である。+1の表現としての言語である。これは、芸術としての、詩としての言語でもある。
 しかし、言語が、近代において変質すると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の言語となると考えられるのである。つまり、−1としての言語である。この変質をどう考えたらいいのか。これは、メディア空間の言語から現象空間の言語への変移とも言えるだろう。つまり、近代以前は、「わたし」即非「山」であるメディア空間言語であったが、近代においては、「わたし」≠「山」の現象言語である。差異共振シナジーが喪失しているのである。詩の喪失、コスモスの喪失である。ここには、即非関係の否定があるのである。マイナスが入ったのである。(i)*-(-i)、あるいは、-(i)*(-i)となったのである。 (i)*(i)ないし(-i)*(-i)の関係である。自尊自大と自虐・卑下である。(ここで、D.H. ロレンスの『死んだ男』の言葉を想起する。贈与は、貪欲の一種であるというような言葉である。)
 これまでの見解では、近代は、差異が原点としているということであるが、差異の新たな活性化としての近代であり、イタリア・ルネサンスにおいて、開花したと考えられるのである。そして、西欧に拡大するのである。差異の活性化としての近代である。そして、哲学として、デカルト哲学が創造されるのである。問題は、明晰性である。デカルトは、明晰な合理性として、即非性を排除して、反差異・連続的同一性を求めたと思えるのである。コギト哲学は、差異の哲学であったが、デカルト合理主義は、反差異の哲学であったと思えるのである。思うに、デカルトは、感情そのものを排除してしまったのである。即非関係は、共感性、一如感情、コスモス感情をもたらすのであるが、即非関係を排除したとき、感情も排除したと言えるだろう。いったい、デカルト合理主義の合理性は何か。それは、反感情的同一性合理性であろう。実は、感情性を排除すること自体が、否定感情的であろう。他者との即非的つながりを切断した同一性は、自尊・自大的同一性である。(これは、遠近法と関係しているだろう。)
 ここで、仮説的に言うと、(i)⇒(-i)の陽の志向性と(i)←(-i)の陰の志向性による双方向志向性があると先に述べたが、デカルト合理主義においては、前者の陽の志向性が中心となり、後者が否定されたのではないだろうか。つまり、陽の志向性に対して、陰の志向性が共立することで、即非関係が生起するが、片方だけでは、即非バランスが崩壊されるだろう。おそらく、両方の志向性の極限として、−1が帰結するのだろう。陽の志向性は、(i)が(-i) となり、陰の志向性においては、(-i)が(i)となるのである。即ち、(-i)*(-i)⇒−1であり、(i)*(i)⇒−1となる。思うに、前者が、近代的自我であり、後者がプロテスタンティズムではないだろうか。
 さて、ここで、言語の問題にもどると、即非言語と反差異的言語であるが、志向性の極限によって、後者が生まれたのである。(i)*(i)と(-i)* (-i)が反差異的同一性の源泉である。だから、問題は、反差異と言語の関係である。ここで、訂正的に考察すると、(i)→(-i)において、(-i) ^2を考えたが、これは、実は、(i)=(-i)という事態(錯誤)であろう。この等号が、反差異的同一性であり、反差異的言語の母体であろう。この反差異的同一性言語を介して、主観は、客観を見ているのである。山は以前は、即非的山であったが、今や、反差異的同一性の山である。
 では、遠近法的距離ないし延長はどう説明できるのだろうか。あるいは、三次元的空間は、どう説明できるのか。確認して考察していくと、即非関係においては、本来、遠近法主義は、生まれない。有限と無限とのパラドクシカルな関係がそこにはある。しかし、反差異的同一性が成立すると、無限が消失する。即非の即がなくなり、非がなくなる。A=A且つA=非Aである即非関係から、A≠非Aとなる。つまり、「わたし」と山は、別々になるということで、もはや、「わたし」と山は、一如になることはないのである。言い換えると、「わたし」と山との間には、反差異的同一性の空間(距離)が発生したということになるだろう。そして、この反差異的同一性空間が、数量化されるわけである。1kmの距離。そして、時間も数量化されるのである。カントの超越論的形式が、この反差異的同一性時空間形式である。ここで、直観で言うと、この同一性は、光速度のことである。なぜならば、あらゆる差異関係において、反差異的同一性が発生するのであるから。例えば、差異1=差異2=差異3=差異4=・・・・・=差異n となり、この等号の同一性空間において、つまり、「わたし」と月との距離における同一性、あるいは、「わたし」とブリュージュとの距離にける同一性、これは、光速しか考えられないだろう。そうすると、−1とは、光速の数ということになるだろう。つまり、1/4回転ならぬ、2/4回転である。(ここで、想起するのは、現象空間は、2回の1/4回転、ないし二種類の1/4回転によって生起すると述べてきたことである。つまり、イデア界から一回の1/4回転で、メディア界が形成されて、第二回目の1/4回転で現象界がされるということである。)
 さて、光速が同一性であるということから、ここで、光の現象に関連して考察する必要があるだろう。有り体に言えば、光とは何かということである。ここでも直観で言えば、光は本来、光でないものである。つまり、光=非光である。そう、即非エネルゲイアの反差異的同一性が光の現象になっているのであるから、本来、差異的同一性の光が存していると考えられるのである。つまり、(i)*(-i)の原光があるはずである。私のこれまでの試論から言うと、これは、宗教的光、例えば、浄土教の光である。阿弥陀如来の光、無量光である。無限の光である。これは、換言すると、陰陽光・太極光であろう。いわば、闇をもった原光と考えられるのである。D.H.ロレンスの黒い太陽、『老子』の玄牝(げんひん)はこれではないだろうか。あるいは、黒い聖母像もこれを指しているのではないだろうか。 ということで、光現象とは、零度差異共振シナジーの原光(玄光?)の同一性現象である。とりわけ、反差異的同一性現象であると言えるように思えるのである。
 では、これを数式化するとどうなるのだろうか。明日野氏の自己認識方程式から考えると、原光=(i)*(-i)⇒+1である。そして、光=(i)* (i)=(-i)*(-i)⇒−1である。ここで、雑駁ではあるが、ダークエネルギーについて言うと、それは、前者に関係するだろう。ただし、正しくは、虚次元・虚空間におけるエネルギー、つまり、虚エネルギーである。つまり、いい足す形になるが、闇があるのである。思うに、(i)⇒(-i)の反差異的同一性が光であり、(-i)⇒(i)の反差異的同一性が闇である。両者は−1で同一となるのである。ただし、方向性が異なるだろう。天から地が光となり、地から天が闇となるのではないだろうか。
 とりあえず、ここで留めたい。

2006年11月21日

検討問題:自己認識方程式のiと-iの意味について

私は、作業仮説ないし思考実験的に、明日野氏の自己認識方程式を一般事象に転用させて使用していることを、お断りして、検討を続けたい。
 明日野氏は、+1が光の方向、−1が闇の方向、そして、iが天の方向、-iを地の方向と提起されている。+1と−1は、いわば、現象空間の実数空間の事象であり、水平方向であり、光と闇の方向というのはわかりやすい。
 問題は、iと-iの空間的意味である。ここでも、直観から考察していきたい。 (i)*(-i)は、直観的に言えば、コスモスである。コスモスは、いわば、不可視的原宇宙であり、地霊的であり、心霊的であり、精神的であり、心身的であり、気的である。いわば、精神的運動性をもつのである。あるいは、精神的力動・エネルゲイアをもつのである。これは、心眼で見えるのである。たとえば、遠くの山の頂を見るとき、心象として、心的力動的に、上昇したり、下降したりしているのである。これは、コスモスの動きと言っていいだろう。
 また、遠くの山並を見つめていると、私が山と一如になったり、あるいは、通常のように分離したりするのである。つまり、私と山が即非関係にあるのである。これらが、 (i)*(-i)の事象であろう。平明に言えば、私は山であり、且つ、山ではないということである。あるいは、山頂は、上昇したり、また、下降しているのである。
 そう、ここで、整理しておくと、+1や−1の実数は、現象空間の事象である。同一性、個体・個物である。しかるに、 (i)*(-i)は、内在超越空間・虚空間・虚次元の事象である。だから、私と山との即非事象は、内在超越空間の事象であり、私=i、山=-i となるだろう。私の感じでは、私と山とが一如になるというのは、私の-iを介してである。つまり、私の内在的な-iを介して、私と山が共振しているのである。そう、私の-iとは、身体の方向であり、下方であると言えよう。だから、明日野氏の説くように、-iを地の方向、大地の方向とするのは、適切であると考えられるだろう。そう、私の身体の-iを介して、私は、コスモスと一如なのである。D. H. ロレンスのコスモスとは、まさに、身体精神的コスモスであり、身体の-iを介していると言えるだろう。ということで、明日野氏の立論が納得できたのである。
 ところで、近代的自我ないし近代合理主義であるが、以上の考えからすれば、-iを否定・排除・隠蔽して、 (i)*(i)の関係になっていると言えるだろう。思うに、 (i)*(i)⇒−1の−1が反差異・連続的同一性であり、物質であろう。カントの時空間形式である。超越論的形式とは、 (i)*(i)のことではないだろうか。それを、近代唯物科学は、無視して、−1という数量形式を物質単位としているように考えられよう。フッサールの生活世界とは、+1の世界である。差異的同一性の世界である。そして、差異共振シナジー的現象空間である。これは、芸術空間でもあろう。
 先にも触れたが、近代とは、+1と−1の二元的に分裂した時代であり、とりわけ、−1が、唯物科学・技術・資本として肥大化したと言えるのである。デカルト哲学は、明らかに、二元的であった。今日、スープラ・モダンsupramodernの時代においては、−1を否定して、+1の世界を形成する必要があるのである。差異共振シナジーの世界を形成する必要があるのである。結局、これは、自己他者である自己身体ないし自己身体精神の発見によるのではないだろうか。仏教的に言えば、瞑想・座禅の必要である。しかし、理論的には、「イデア」を認識することである。現象空間を内在超越(超越論)化した、「イデア」空間・虚空間を認めることである。もっとも「イデア」空間とは、メディア空間のことである。
 ついでに言うと、アメリカの哲学者パースの説く連続性とは、差異共振シナジーに近いのではないかと予感されるのである。

連続性の哲学 (文庫)
C.S. パース (著), 伊藤 邦武 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003368819/sr=11-1/qid=1164109230/ref=sr_11_1/250-0266631-2970646

 さて、後の大きな問題は、イデア界とメディア界との関係である。

2006年11月17日

反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか

反差異・連続的同一性の発生構造について:差異共振様相から、どのように、反差異・連続的同一性が発生するのか、形成されるのか

メディア空間においては、(+i)*(-i)が成立している。零度差異共振シナジー様相ないし事象である。これが、現象化するのであるが、そのとき、同一性化が生起する。いったい、同一性とはどこから発生するのか。もし、(+i)を原自己、(-i)を原他者とするなら、同一性とは、一般には、原自己が原他者を否定するようなものと考えられるかもしれないし、これまで、そのように見てきた。即ち、(+i)*-(-i)としての反差異・連続的同一性である。即ち、−1を帰結するのである。
 その見方は、それで、明快であるが、私の直観では、同一性、即ち、反差異・連続的同一性は、そのような-(-i)とは異なるように思えることである。この点を調べてみよう。原自己の(+i)と原他者の(-i)が共振しているが、共振は、*である。そして、共振から両者が連結様態になるのである。あるいは、両者結合するのである。それが、等号関係である。(+i)*(-i)⇒(+i)=(-i)であろう。そして、この等号が、同一性である。しかし、この様態は、差異的同一性であろう。なぜなら、(+i)と(-i)との不連続的差異が存立しているからである。ならば、反差異・連続的同一性はどのように生起するのか。それは、等号=が、両辺の(+i)と(-i)を否定したときであろう。つまり、おそらく、等号自体が、反差異・連続的同一性となるのである。だから、等号は、(+i)も(-i)も、無化して、すべて反差異・連続的同一性に還元してしまうのである。いわば、絶対的同一性である。ここにおいて、メディア空間は、完全に否定されるのである。ただ、絶対的同一性空間があるだけである。これが、物質空間、唯物空間、近代科学空間であると考えられるのである。そう、絶対的同一性が物質ないし物質の単位である。「アトム」である。「粒子」である。
 では、この等号・絶対的同一性の発生力学は何だろうか。私が、個体とは、特異性であるというとき、それは、差異的同一性ないし差異的同一性個体のことである。例えば、眼前の一個の柿は、非柿でもあるものである。平たく言えば、それを石の換わりに、武器として使用して、敵に投げつけることもできるのである。つまり、眼前の柿は、非柿=武器である。それは、差異的同一性の一例である。とまれ、そこには、潜在したエネルゲイアがあるのである。(内在超越したエネルゲイアであろう。単に内在していると言いたい気もするが、それは、プラトニックな空間において内在しているのであり、現象空間において内在しているのではないから、やはり、内在超越していると言わなくてはならない。)
 さて、この差異的同一性=特異的個体性を否定・無化した反差異・連続的同一性=絶対的同一性であるが、この否定・無化はどこから発生するのだろうか。差異の極性(即非性)を否定・無化する「力」はどこから発生するのか。ここでも、直観から言えば、差異的同一性の同一性現象だけに注目すると、確かに、眼前の一個の柿と隣にある他の一個の柿とは、排他的関係にあるのがわかる。柿Aと柿Bは、いわば、二律背反である。この柿とあの柿とは、現象空間的には、絶対的に排他的関係にあると言えよう。例えば、この柿は腐っているのであるし、あの柿は完熟して、豊潤な味覚なのである。誰が、この柿を欲するだろう。ここで、複数の飢えた人間は、互いにあの柿を求めて、相争うことになるのである。このように考えると、反差異・連続的同一性=絶対的同一性とは、現象空間と相即であることがわかる。つまり、視覚空間、純粋視覚空間としての現象空間が問題となっていると考えられるのである。純粋視覚空間は排他的である。ここに、反差異・連続的同一性=絶対的同一性が形成されていると言える。
 そうすると、問題は、純粋視覚、現象空間とは何か、ということになる。見るとは何かということになる。私の考えるヴィジョンとは、当然、内界的な映像である。それは、(+i)*(-i) ないし(+i)⇒(-i)のヴィジョンである。しかし、同一性へと転化するときには、それは、薄れていくだろう。差異的同一性は、(+i)*(-i)⇒+1である。しかし、反差異・連続的同一性は、(+i)*(-i)=+1の+1ないし1ではないのか。あるいは、絶対値の1、|1|かもしれない。これが、純粋視覚空間の同一性ではないのか。そう、左辺が無化されているのである。単に、実数の世界である。1と2とは排他的関係、1≠2である。(微分とは、不連続的差異を無視しているのであり、絶対的同一性の虚構であろう。)
 すると、先にも述べたが、⇒+1と=+1の違いが大きいと思う。前者は、エネルゲイアがあるが、後者はエンテレイケイアのみである。この違いの原因は何か。ここで想起するのは、明日野氏が、+1は、光の方向、視線の方向であると述べていたことである。つまり、現象空間形成の方向である。そして、近代とは、この方向のエネルゲイアをもっていたと考えられよう。西欧近代における遠近法の発達とは、正に、これを証するだろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが、西欧近代の方程式であろう。正確に言えば、(+i)*(-i)=+1である。これが、西欧近代主義の方程式であろう。+1という実数の世界であり、これが、相互に排他的なのである。社会・政治空間的には、ホッブズの万人に対する万人の戦争である。
 さて、問題は、この現象空間化が+エネルゲイアに拠るならば、当然、−エネルゲイアが生起するのである、というか、同時生起である。±エネルゲイアがメディア空間に存立・共立・並存生起するからである。では、当然、−エネルゲイアの事象が生起しているはずである。つまり、−1の世界、反世界である。反現象世界である。そう、「ダーク・エネルギー」の世界である。黒い太陽の世界である。つまり、近代において、+1の現象空間だけでなく、−1の反現象空間・闇黒空間が生起しているはずである。光と闇の対発生である。しかるに、西欧近代は、光しか見ようとしないのである。デカルト哲学の合理主義は、この面があると思う。デカルトがあいまいなものを排斥して、明晰判明な観念を真理として、その他を誤謬としたが、このあいまいなものが、闇であったであろう。−1、闇の世界を、西欧近代は、排除しているのである。これは、不正義である。不正である。不公正である。一種邪悪である。初期近代ないし近世において、光と闇が同時生起したのであるが、西欧近代は、闇を無化したのである。魔女狩りとか、はその一つの発現と考えられる。そう、プロテスタンティズム自体がそのようなものでもあろう。神秘思想家のヤコブ・ベーメやエックハルトの闇が否定されたのである。近代科学は、この闇否定から生まれたと言える。
 では、何故、西欧近代は、光と同時生起した闇を否定・無化したのか。現象空間=光空間だけを肯定して、非(反)現象空間=闇空間を否定・無化したのか。今の私の直観では、それは、男性の恐怖があるのだと思う。つまり、男性は、光空間への傾斜があり、闇空間を本質的に恐怖するのではないのか。つまり、+エネルゲイアへの傾斜を男性はもっているならば、当然、−エネルゲイアへは反発するはずである。−エネルゲイアを否定し、抑圧し、排除・排斥し、隠蔽し、無化するはずである。おそらく、これである。男性の恐怖、とりわけ、アーリア民族男性の恐怖が、近代初期において生起した闇空間を否定・無化したのである。そうすると、これまで、反復してきた、近代的自我の発生の問題であるが、それは、これで解明されるだろう。何故、差異を否定するのか、と言えば、それは、男性、とりわけ、アーリア民族の男性が本来、+エネルゲイア、反差異・連続的同一性への傾斜・志向性がもっているからであるということになるのである。だからこそ、魔女狩りが起きた説明がつくだろうし、近代科学が発生したのも判明するだろう。近代科学は、他者否定的で、暴力的である。つまり、近代科学は、絶対的同一性=物質を絶対的基礎としているのであり、それ以外のものを排除・排斥するのである。
 ということで、近代的自我の成立とは、アーリア民族男性の+エネルゲイアへの傾斜・志向性に根拠があるということになったのである。そして、私が頻繁に悪魔と呼ぶものは、正に、このことに他ならない。つまり、近代初期に生起した光と闇の対空間発生に対する、アーリア民族男性の+エネルゲイアによる恐怖的反動、これが、悪魔の正体なのである。

p.s. 思えば、近代科学の創始者たちは、いわゆる、オカルトにもたいへん興味をもったのである。ニュートンの錬金術、ケプラーの占星術、これは、近代が、本来、光と闇の対発生であることの証左の一つであろう。

p.p.s.  また、この対発生を考えると、どうして、ルネサンス において、神秘思想 ・魔術・ネオ プラトニズムが興隆・流行したのかもわかるだろう。フィチーノの魔術思想 、ピコデラミランドラ の神秘思想 、ジョン・ディー の魔術思想 、シェイクスピア の魔術思想、等々。
 また、文学 のモダニズムにおいて、どうして、宗教 ・神話 や神秘思想 が導入されたのかも、理解できるだろう。

2006年11月13日

合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:デカルトとポスト・モダン

合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:例えば、近代合理主義の近代合理性とは、何であり、どこから発したのか。あるいは、知性とは何なのか。どこから、知性が発するのか。
 近代的自我は、(i)*-(-i)⇒-1 であるが、やはり、最初のマイナスの発生が問題である。具体的に確認していこう。眼前に、カップがある。同一性(同一性体)である。しかし、眼前のカップは、実際は、差異的同一性であるが、物質的知覚は、それを、反差異・連続的同一性として捉える。ヘーゲルの個別性である。差異的同一性(=特異性)が捨象されているのである。あるいは、差異が排斥されているのである。
 近代的自我とは、この差異を消去した認識、反差異・連続的同一性認識をもつものと言えよう。もし、差異的同一性=自己であれば、自己と他者であるカップの間に、なんらかの共振性が生起するのであるから、カップは、差異的同一性として認識されるだろう。しかし、反差異・連続的同一性=近代的自我であれば、自我と他者を絶対的に二元論的に区別して、カップは、カップであり、それ以外の何ものでもないと判断するだろう。A=Aであり、A≠非Aである。そして、このカップは、他のカップと同様に、カップとして、連続的同一性である。これが、ヘーゲル的個別性=一般性の考え方であるが、これは、とりもなおさず、言語観念形式の考えた方であろう。名詞のカップは、反差異的同一性として、観念体系の中で、一般性をもっているのであるから。つまり、言語観念形式は、反差異的同一性形式をもっているということになるだろう。【ここで、ヨハネの福音書の冒頭「初めに、ロゴスありき」を、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と訳した(誤訳した)ことを想起するのである。】
 近代的自我=反差異・連続的同一性=言語観念形式という図式がほぼ形成されるだろう。そして、これを数量化して、近代合理主義が成立する。つまり、物質の誕生である。差異を排除した同一性の徹底化である。そして、この数量化された反差異・連続的同一性、即ち、物質的合理性が、近代合理性であり、その知が近代知性である。ここには、差異に対する絶対的否定性が作動しているのである。-(-i)の最初のマイナスである。
 とまれ、これで、近代合理性について解明できたといえるが、一般に合理性とは、なんらかの同一性の論理であると言えるのではないか。例えば、即非の合理性とは、差異的同一性の論理であると言えるのである。
 これで当初の問題をクリアしたが、やはり、否定の期限の問題が残っている。これまで、キリスト教的二元論に否定性の起源を見てきたのではあったが。しかしながら、キリスト教文化をもたない場所においても、否定性が出現するのであるから、この説は普遍的説得力をもたない。
 やはり、その説以前に述べた、不安・恐怖説の方が的確ではないだろうか。差異は、本来、単独性・特異性であり、孤独である。これが、近代初頭に出現したのである。ルネサンスがそうであるし、それ以後、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、パスカル等にあったものである。でも、何故、差異は不安なのか。その理由は、人間は、受動性をもっているので、差異の様相にあるときに、支えが無くなるから不安になるということと考えられる。つまり、単独性・特異性に、自己がさらされるのであり、受動的自己は、どこにも、支えを見つけられないのである。つまり、ここにおいて、外在的な支えはすべて崩壊したと言っていいのである。デカルトのコギト哲学とは、正に、単独性の自己の哲学であり、単独性に自己確認を見出したものである。しかし、この単独性から、デカルトは、明晰な観念=合理性を求めていくのである。しかし、この合理性が、反差異・連続的同一性、近代合理主義につながったと考えられるのである。というのは、デカルトは、あいまいなものを能動的に排除して行ったのである。そして、このあいまいなものに、感覚性が入ったのである。この結果、身体が排除されることになったと考えられるのである。あいまいなものを排除するという合理主義は知性としては、正統的であるが、その中に感覚性を入れたことが、近代的合理主義の誕生となったと言えるのである。心身二元論である。思惟と延長との二元論である。
 思うに、感覚ないし身体と観念・知性との関係の中に、差異があるのである。私は、精神とは心身であると考えている。単に、心だけでは、単に、身体だけでは、精神はないと考えられるのである。そう、差異の発現としての、心身であるからである。差異の発現として、心があり、身体があるのであり、どちらか一方ということではないのである。正に、心と身体とは、一如である。心身一如である。だから、感覚・身体を排除したデカルト合理主義とは、当然、否定性を帯びて、反差異的合理主義になったと言えるのである。単独性から出発していながら、デカルトは、正反対の近代合理主義に帰結したのである。デカルト哲学は、絶対的矛盾を内包していると言えるのである。(このデカルトの矛盾をほぼ解決したのが、スピノザであるが、これについては、既述である。)
 では、デカルトの感覚・身体否定は、どこから発しているのか。何を意味しているのか。思うに、ここには、感覚・身体に対する観念・知性側の切断があるだろう。この切断には、不連続性には、意味があるのである。これは、おそらく、超越性、内在超越性の意味があるのである。現象的感覚・身体性を捨象うするということは、超越性を志向していると考えられるのである。極言すれば、「イデア」性を志向しているのである。宗教的に言うと、一神教とパラレルと考えられる。神=「イデア」の次元とすれば、ほぼ等価である。
 だから、デカルト合理主義の合理性とは、超越次元にあると考えられるのである。故に、近代合理主義の合理性も超越的であるということになるのである。つまり、近代合理主義とは観念的なのである。そして、これをカントは、超越論的形式と呼んだと考えられるのである。デカルトとカントは、当然ながら、直結しているのである。さらに言えば、近代合理主義の合理性とは、構造であるということである。構造主義は、デカルト/カントから発していると言っていいだろう。
 だから、近代主義とは構造主義なのである。近代科学は構造主義なのである。問題は、脱構造主義である。ポスト・近代主義である。なぜなら、近代主義は、差異を内包しているから、当然、差異の進展が帰結するからである。つまり、脱構造主義、ポスト・モダンは必然なのである。
 では、差異の内包について考察しよう。コギト哲学は、単独性・差異哲学であるから、当然、差異が前提にあるのである。これが、近代合理主義によって、隠蔽されているのである。ちょうど、ルネサンスが、プロテスタンティズムによって隠蔽されているように。問題は感覚・身体否定にある。そして、知性の問題である。そして、観念の問題である。そして、言語の問題である。また、数学の問題である。おそらく、明晰な思考とは、言語観念形式や数学を必要とするのである。言語観念形式や数学がなければ、思考は、不分明なままである。あるいは、ヴィジョンのままである。直観のままである。おそらく、ここに人間の知性形式の問題があるのである。なんらかの観念形式によって認識するのである。観念媒体と言ってもいい。おそらく、デカルトは、明晰な観念を求めて、感覚・身体を否定したのである。これが、近代の否定性である。
 ここで図式化してみると、(i)*(-i)は、(i)⇒(-i)であり、これが、単独性・特異性である。しかし、この ⇒は、+エネルゲイアと考えられるから、反転して、−エネルゲイアと発生させるのである。つまり、反作用である。だから、(i)←(-i)であり、結局、 (i)*(i)⇒−1である。これは、意味のある反転・反動である。
 しかし、問題点は、原点を喪失することである。超越性、超越論性、内在超越性という原点・次元の喪失・忘失である。構造主義とは、この意識化であろう。つまり、構造主義とは近代主義そのものの意識化・理論化である。そして、それに対して、キルケゴール、ニーチェ、フッサールが脱構造の志向を提起したのである。これは何を意味するのか。当然、ポスト近代主義であるが、これは、どういうことなのか。近代主義のもつ超越次元喪失に対する批判である。あるいは、反差異的同一性へと帰結した近代主義運動への批判である。
 メディア空間の差異共振は、いわば、永久運動であるから、閉じられることはないのである。しかし、近代主義運動は、反差異的同一性に閉じられてしまっているのである。これは、フッサールの自然的態度と言っていいだろう。これは、反差異的同一性という物質や貨幣が、経済的現実を支配していることに起因があるように思える。つまり、生存の恐怖から、反差異的同一性の態度を反動的に保持すると考えられるのである。ということは、高貴な精神をもっている人格において、当然、一般に隠蔽された差異が活動しているのである。ニーチェが言った「貴族」的精神をもった人間が、現実にある差異を肯定するのである。デカルト哲学の未熟性・不十分性を克服すべく、スピノザ、カント、キルケゴール、ニーチェ、フッサールと西洋哲学の天才たちが、差異の哲学、ポスト近代主義の哲学を開拓していったのである。しかし、これに対する近代主義的折衷が生まれる。つまり、連続論的哲学である。ライプニッツのモナド哲学、ベルクソンの持続論、ホワイトヘッドの有機体論、ハイデガーの存在論、ドゥルーズの連続的差異論等である。そして、フランス・ポスト・モダンは、初期は、そのようなものであったが、後期デリダにおいて、正統なる差異哲学/ポスト・モダン哲学が、復帰したのである。
 ということで、近代とは、必然的に、ポスト・モダンなのである。出発点が、差異であるからである。これが、怯懦によって、近代主義となったのである。近代は、構造主義であり、且つ、脱構造主義なのである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が、このポスト・モダンの問題を解明したことになるだろう。そして、それは、内在超越次元であるメディア空間の発見である。

2006年11月12日

2つの資本(主義):反差異・連続的同一性資本と差異共振シナジー資本

これについては、ある意味で、既述したが、イメージ(ヴィジョン)が湧いたので、記しておこう。
 プラトニック・シナジー理論における零度差異共振シナジー・メディア空間(以下、メディア空間、シナジー・メディア空間、等と簡略する)であるが、それは、精緻に言えば、永遠普遍空間・超時空間(四次元ないし五次元)であるが、これが、いわば、「現実」界・現象界に浸透している、染み込んでいるのである。しかしながら、メディア空間は、全体は、潜在している、それも、デュナミスとして潜在して、いわば、休火山である。メディア空間の極く一部が「現実」界・現象界に顕在化しているに過ぎない。「物質」であるが、それは、メディア空間の差異共振の反差異・連続的同一性体であると考えられる。つまり、「物質」とは、簡単に言えば、差異的同一性体の差異ないし差異共振シナジー性を捨象した側面である。あるいは、差異的同一性空間が、反差異・連続的同一性空間に投影された影像が、「物質」であると言えるのではないだろう。つまり、「物質」とは、差異的同一性の、反差異・連続的同一性空間への投影像と考えられるのである。反差異・連続的同一性空間が「物質」空間であり、近代においては、これが、「現実」空間と考えられたのであり、今日でも、唯物科学によって、これが現実だと考えられているのである。
 しかしながら、「物質」とは、あくまで、差異的同一性の被捨象像に過ぎないのである。差異の連続面のみを観察・観測しているのに過ぎないのであり、つまり、差異の表層・表面を現実としているんどえあり、差異の深層・本体・実相を無視しているのである。簡単に言えば、差異のエネルギーの、連続面の反映・投影像を見ているだけである。だから、「物質」のエネルギーとは、差異のエネルギーの反映に過ぎないのである。【例えば、電力の100ワットとは、「物質」エネルギー量であるが、しかし、これは、差異エネルギーを無視しているのある。つまり、差異共振シナジー・エネルギーを無視しているのである。これは、とりあえず、(i)*(-i)で表現できるだろう。(先に、Kaisetsu氏の仮説があるが、それが参考になるだろう。)それに対して、反差異・連続的同一性体である「物質」とは、それを否定して、(i)*(-i)⇒+1の結果の+1を見ているだけである。だから、100ワットとは、(10i)*(-10i)⇒+100ワットであるが、左辺を捨象しているのである。(おそらく、(i)*(-i)は、プロト量子空間であろう。量子とは、この「物質」像である。)】
 本論に戻ると、近代資本主義とは、反差異・連続的同一性=物質に基づく資本主義である。人間も、物質に還元されるのである。そして、これに交換価値がつけられるのである。商品としての人間である。物質主義・唯物論では、差異共振性が無視されるので、人間は、「疎外」されるのである。しかし、物質主義・唯物論の誤りは、以上の説明で明々瞭々である。零度差異共振シナジー空間・メディア空間の連続的同一性空間として物質空間・唯物空間があるのである。本体のメディア空間を無視しているのである。否、正確に言えば、メディア空間の現象態である心・思惟・意識・知性・精神と、物質空間・唯物空間との二元論に陥っているのが、近代空間なのである。思惟と延長の二元論である。近代派、前者のメディア空間が内在超越空間(内超空間)であるからことが認識できないので、両者を同列にして、さらに、後者の物質空間から前者を認識しようとしているのである。脳科学とは正に、そのようなものである。だから、例えば、「気」の現象の説明が物質空間科学ではできないのである。「気」は、差異共振シナジー空間・メディア空間を考えれれば、簡単に説明が出来るのである。
 結局、近代資本主義は、物質と精神の二元論ないし心身二元論であるが、物質中心主義・唯物論資本主義になっているのである。当然、メディア空間側からの異議申し立てが出るのである。(そして、ネオコンの場合は、アイロニカルな没入で、−1の倒錯になっているのである。)
 そして、時代的には、近代主義を超克するものとして、ポスト・モダンが生まれるのである。これは、反差異・連続的同一性を超克する差異理論を意味するのである。これは、哲学的には、ポスト・ヘーゲルである。キルケゴール、シェリング、ニーチェ、フッサール、他が、真正な先駆者である。そして、ポスト・モダンの系譜は、ハイデガーで、反動化し、連続論化するのである。そして、フランス・ポスト・モダン運動であるが、これは、ドゥルーズの場合、反動的な、ベルクソン/ハイデガー的連続論を継続して、失敗したのであるが、後期デリダにおいて、ポスト・モダンが継承されたと言えるのであり、日本において、鈴木大拙、西田幾多郎によって、ポスト・モダンが進展した。その後、不連続的差異論、そして、プラトニック・シナジー理論が創造されたのである。
 さて、問題は、反差異・連続的同一性が、もたらす心・主観性への影響である。反差異・連続的同一性現象としての物質を近代は発見する。そうすると、心・主観性・意識は、本来は、メディア空間であるから、差異を内包しているのであるが、逆に差異を否定・排除・排斥・隠蔽するようになるのである。この点では、近代科学による物質の発見は大きな影響をもっただろう。反差異・連続的同一性体としての物質という観点、つまり、唯物論は、心・主観性・意識を唯物化し、心にある差異を否定したのである。【思うに、これが、−(−i)の最初の−の発生の根因ではないのか。】つまり、物質のもつ反差異・連続的同一性の論理によって、メディア空間・心のもつ差異の論理(対極性・即非性の論理、あるいは、「ターシャム・オルガヌム」)が排除されたのである。二項対立の論理が、おそらく、物質の論理から形成されて、メディア空間の論理・差異の論理が否定されたのである。もっとも、アリストテレスの論理学は、古代からあるから、それに付加して、物質の発見があって、唯物論が生起して、二項対立論理が徹底したと言えよう。
 そして、これは、フッサール現象学の問題である。フッサールは、近代唯物科学、近代主義の反差異・連続的同一性科学を批判して、心・主観性・意識、即ち、メディア空間の科学を取り出したのである。これは、差異科学、メディア空間科学と呼べるであろう。
 ということで、19世紀後半から20世紀前半にかけて、近代主義批判と超克理論が創造されたのである。一方、近代科学と近代資本主義が前進して、産業が発達するようになるのである。しかし、近代科学は、相対性理論や量子力学で、反差異・連続的同一性の前提が破綻したと言えるだろう。これが、現代科学である。
 しかしながら、世界大戦等を繰り返すなど、世界は、暴力・狂気的様相を増したのである。近代主義と脱近代主義の争闘は続いているのであり、20世紀後半において、フランス・ポスト・モダン運動が勃興する。しかし、資本主義は、冷戦後、グローバリゼーションを迎える。アメリカのネオコンは、しかしながら、近代主義というよりは、反動である。資本主義は、いわゆる、情報資本主義へと転換していく。情報とは、実は、メディア空間の知的事象であり、情報化は、多元的知性を解放したのであり、知性の脱領域化が生じて、知は多元的様相となる。
 情報化と差異理論とが融合して現代的ポスト・モダン理論となるのであるが、これは、メディア空間の解放を意味すると言えるだろう。差異情報空間と言ってもいいだろう。そして、この現代ポスト・モダン状況において、資本主義が、ポスト・モダン的資本主義の究極態である差異共振シナジー的資本主義に変容する可能性をもっているのである。これは、内在超越するメディア空間を活用した資本主義であり、メディア空間・差異共振シナジー資本主義と呼べるであろう。資本は、差異共振シナジー資本、メディア空間資本、《メディア》資本となるのである。
 そして、この《メディア》資本を環流させる社会の血液として《メディア》貨幣が必要となるのである。それが、差異貨幣であり、反差異・連続的同一性資本の貨幣とは異なるものでなくてはならないのである。それは、Kaisetsu氏が提唱されているように、銀本位制によって実現される可能性があるのである。メディア空間的社会のメディア貨幣としての銀本位制の貨幣である。
 とまれ、以上のように、ポスト・モダン資本主義としての、差異共振シナジー資本主義、メディア空間資本主義が提起されるのである。

2006年11月06日

−(-i)の最初の−はどこから発したのか:同一性自己=自我の発生構造について

詳しくは後で論じたいが、この−(マイナス)の原因が分かれば、人間の問題は、ほぼ解決したと言えるだろう。この−のために、人は苦しんでいるのである。そう、この−は、《悪魔》と呼んでいいのであるが、どこから、この《悪魔》が人類の精神にやってきたのかである。

 先の考察は、「メディア界」からの能動的な1/4回転で、⇒−1(近代的自我)が生起すると考え、そして、反転による差異の活性化によって、近代的自我(同一性自己)と差異(的自己)とが分裂すると考えたのである。この考え方の問題点は、能動的な1/4回転を理論化できないことである。

 だから、ここで、再び、直観考察(直観推理)しよう。問題は、⇒+1である。即ち、(+i)*(-i)⇒+1の⇒ +1である。ここでは、自己と他者とが共立することで、差異としての自己となっている。これは、また、特異性の自己と言ってもいいだろう。ルネサンスの個とは、この数式があてはまるのである。デカルトだけでなく、スピノザ哲学もこれで説明できるだろう。というのは、(-i)に能動的観念を含むことができるからである。

 問題は、同一性の現象化である。主観の同一性化である。ここで精緻・厳密になるために、用語を確定しないといけない。「メディア界」の極性は、不連続的差異の極(イデア極)と同一性の極(現象極)がある。そして、同一性への展開として、現象化が出現するのであるが、これを同一性現象化と呼ぶと、ルネサンス的個という同一性現象化は、(+i)*(-i)⇒+1の+1で記述されると考えられる。⇒+1とは、だから、差異的同一性ないし特異性的同一性を意味しているのである。

 しかるに、近代的自我のもつ同一性は、当然、これではなくて、先に述べたように、(+i)*-(-i)⇒−1と考えられるのである。つまり、内的差異である(-i)を否定した、無差異的同一性である。ここで明快しておけば、数値の1が同一性である。そして、+1が、差異的同一性ないし自己である。次に、 −1が、反差異的同一性ないし自我である。これで、用語は整理された。

 では、本テーマを考えよう。どうして、−(-i)の最初の−が発生したのか。この問題は、以前からのアポリア(難問)になっているのである。これまでは、結局、優秀な差異と低劣な差異の二種類の差異があるということで説明してきたのである。優秀な差異とは、(+i) *+(-i)を維持する自己である。低劣な差異とは、それを維持できず、+を−に替えてしまうということになるのである。

 この+(-i)の+とは何だろうか。スピノザ的に言えば、当然、能動的観念に関係する能動性であろう。思うに、−(-i)となるような状況に対して、優秀な差異(優秀な自己と言った方がいいだろう)は、+(-i)を保持する能動性をもつのである。つまり、差異共振シナジー性を保持しようとするのである。

 「− (-i)となるような状況」とは何だろうか。これは、内的他者の否定である。内的他者を否定する状況とは何だろうか。これは、端的に言えば、殺すことではないだろうか。生きるため、生き物を殺さなくてはならないのである。ここで、内的他者を否定する必要があるのである。あるいは、隣人や、外部の者の所有物を盗む、奪う必要がある状況である。例えば、飢渇の状況にあるとき、「わたし」は、生物を殺したり、隣人や外部の人間の食物を奪ったりするだろう。「−(-i)となるような状況」であろう。言わば、極限状況における生存のための暴力行使である。人食い(カニバリズム)も、当然、ここから発生するだろう。無情・残忍・冷酷・無惨、等々の生存意志である。(参照:武田泰淳『ひかりごけ』)

 古代においては、これに対して、儀礼を行い、償いをしたと言えよう。贖いである。つまり、-(-i)の行為に対して、補償行為として+(-i)行為を、おそらく、過剰な行為を行ったと考えられるのである。おそらく、供儀(くぎ)は、ここから発生しただろう。そして、社会共同体の掟・道徳・倫理・コードが発生するのである。

 しかし、近代的自我の発生の場合は、明らかに、この社会共同体的コードが崩壊した状況にあったと言えよう。人間は生きるために、「−(-i)となるような状況」が必然的に伴うのである。だから、それを償うために、社会で、「共同体」の儀礼・道徳・コード等を定めて、いわば、「メディア界」の倫理を保持したのである。この「メディア界」の倫理のために、「−(-i)となるような状況」が生じても、+(-i)に回帰できたのである。これが、人類社会を保持してきたと言えよう。

 しかし、近代的自我の発生する時期は、社会コードが崩壊した環境にあったのである。つまり、社会倫理、「メディア界」倫理が崩壊した環境にあり、「−(-i)となるような状況」に対して、それを倫理的に補償することができなくなっていたと考えられる。つまり、「−(- i)となるような状況」は、そのまま、継続されるのである。だから、自己が、(+i)*-(-i)⇒−1という近代的自我になったのである。即ち、+(- i)の倫理が喪失されてしまっていたのである。言い換えれば、差異の倫理、他者の倫理、「メディア界」倫理が喪失した状況・社会環境にあったのである。この倫理は、当然、エネルゲイアとしての倫理でなくてはならない。強制力をもつ倫理でなくてはならない。

 思うに、近代化が一番先に生じたと考えられるイギリスにおいて、共同体の破壊が、囲い込み運動によって起こる。その共同体の破壊、即ち、社会倫理の崩壊によって生じた−1の人間を、シェイクスピアは、とりわけ、『リア王』によって描写していると考えられるのである。文学研究においては、二つの自然ということが『リア王』について、昔、言われた。即ち、リア王の体現する「自然」(位階的王権秩序)とエドマンドの体現する「自然」(無頼・無法者・悪人:つまり、物質的自然:ホッブズ的自然)である。後者にリア王の酷い娘達(ゴネリル、リーガン)が入るが、彼女達は、末娘のコーディリア(父思いの娘)と好対照である。劇中のある人物がどうして、同じ母からこのような異なる娘が生まれたのかと述べているのであるが、この二つの自然とは、実は、ここで述べた「共同体」の崩壊によって生じたと考えられるのである。シェイクスピア悲劇とは、近代の悲劇、封建的共同体の崩壊の悲劇、即ち、(i)*-(-i)⇒−1の、没倫理の悲劇なのである。ホッブズの社会哲学が生まれたのも、当然と言えよう。(ついでに言えば、イギリスで、このような没倫理化が起こった原因は、単純化すれば、プロテスタント化だと思う。カトリック的宗教権威が衰退して、物質主義的権力が強化されたことだと思われる。できれば、後で、さらに検討したい。)

 最後に、現代日本の「自己愛性人格障害」(近代的自我狂気症候群)であるが、これは、ここで述べたことがそのままあてはまるだろう。社会倫理の崩壊があるのであり、それが、(i) *-(-i)⇒−1という近代的自我を蔓延させたのである。日本の社会倫理の崩壊とは、一つは排仏毀釈のような神仏分離、そして、一つは戦後の唯物科学教育に、イデオロギー的には、拠ると言えよう。とりわけ、後者の唯物科学と結びついた唯物資本主義によって、経済的に引き起こされたと言えよう。

参照:

『近代の誤り⇒倒錯・『物の優位』という過ち』

http://theory.platonicsynergy.org/?eid=401706

Theories for the Platonic Synergy Concept.

2006年11月02日

写真と精神:精神的視覚と「写実」:同一性主義批判と新東洋文明曙光(はてなダイアリーから)

〓〓Β.jpg先に、映画 と精神 について、簡単に言及したので、ここで、本件について簡単に触れたい。もっとも、これは、芸術 と精神 ないし感覚と精神 の問題として一般化できるが、一般論 は、ここでは置いといて、写真 と精神 に限定したい。(そう、これは、デザイン と精神 、等々と展開するだろう。)

 映画 については、ベラ・バラージュの古典 の『視覚的人間 』があるが、

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003355717/sr=8-1/qid=1162439021/ref=sr_1_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books

精神 の表現技術 の方にウェイトが置かれているだろう。(この書は、思うに、映画 の一種モダニズム的理論 だろう。)

 映画 の精神 表現については、精神 的視覚性が映画監督 に必須の資質だと思っている。つまり、美術 的資質である。それに物語 の資質等が加わって、映画芸術 が可能になるだろう。小津安二郎 の映画 (少し過大評価 ではないかと思われるが)は、やはり、美術 的側面というか、絵画的側面が強いだろう。

 では、本件の写真 と精神 のテーマ については、どうだろうか。これも、直観では、精神 的視覚性が基礎だと思うのである。つまり、やはり、美術 的資質である。(映画 や写真 は美術 芸術 に入るものであるし、漫画やアニメもそうである。しかし、精神 表現がなくてはならない。)

 精神 的視覚とは、何か、ということになる。これは、「イデア 」的視覚であるし、ヴィジョン的視覚とも言えるだろう。(神秘的に言えば、透視 に近いのであるが、「霊視」になると、これは、逆の二元 論となり、病理的倒錯である。)これを、プラトニック・シナジー理論 の視点から考察 すると、これは、とりもなおさず、不連続的差異 の即非共立的視覚ということではないだろうか。精緻に言えば、不連続的差異 即非共立的「同一性」志向視覚ではないだろうか。これを図式化しよう。

差異1☯差異2☯・・・☯差異n   (差異即非界)

において、☯→=(即非→同一性)が、プラスの志向性として生起するし、同時に、☯→dd (discontinuous difference:即非→不連続的差異 )が、マイナス の志向性として生起すると考えられる。

 精神 的視覚、イデア 的視覚とは、☯→=(即非→同一性)における→=(→同一性)に存するのではないだろうか。光の志向性と言ってもいいだろう(それに対して、→dd は、闇の志向性と呼べるのではないだろうか)。換言すると、精神 的視覚=光の志向性とは、即非共立ヴィジョンをもった「同一性」視覚ということになろう。これは、不思議 なヴィジョンではあるが、単純化すると二重のヴィジョンであるが、正確には、多重多層複合融合的ヴィジョンである。この精神 的視覚能力が、美術 的資質・才能 ・天才である。これで、すでに、写真 と精神 のテーマ は、解決しただろう。結局、現象に対して、精神 的視覚を向けて、撮影したものが写真 芸術 である。(後、闇の志向性と写真 の問題があるが、これは、課題としておこう。)

 さて、最後に、「同一性」の問題を考えたい。先に、連続 的同一性と不連続 的同一性(特異性的同一性)を区別した(これは、量的同一性と質的同一性と言い換えることもできるだろう)。しかし、同一性という言葉 は、差異の現象に対して、直に使用すると落ち着きが悪いと感じられるのである。

 →同一性と言えば問題がないのである。とまれ、精緻・厳格に検討しよう。連続 的同一性とは、差異=微分 であり、虚構に過ぎない。つまり、真正な事象には、存在 しない、ヴァーチャル なものである。では、実際の→同一性を分析的にみてみよう。

 零度差異共振 シナジーによって、諸・不連続的差異 が連結し、連続 化し、同一性となる。ここで、作業仮説であるが、諸・不連続的差異 が、それぞれ、同一性になるとしよう。つまり、差異1、差異2,・・・差異nが、すべて、同一性になるということである。つまり、差異k=同一性(連続 的同一性)【差異k→同一性が正確である】である。しかし、この多数の同一性・連続 的同一性の集合連続 体自身が、一つの連続 的同一性体を形成していると考えられるのである。ということで、差異k→同一性の連続 的集合体として、連続 的同一性体を考えることができる。(これから、→を連続 的同一性志向性を意味 する記号としよう。)差異k→同一性→同一性体となる。

 私が、これまで、連続 的同一性と呼んだものは、=同一性体(同一性個体)のことである。では、不連続 的同一性とは何かとなると、当然、→同一性体(同一性個体)のことである。簡単に言えば、→である。つまり、志向性には、差異即非共立性・差異共振 シナジー性があるということである。メディア 界があるということである。始点が存しているということである。根源が存しているということである。

 ということで、同一性の問題は、→(志向性)があるか、否かの問題なのである。近代主義とは、この→を否定・無化した観念体系であると言えるのである。結局、連続 ・同一性主義ないし連続 ・同一性中心主義である。これで、同一性の問題は解決したとしよう。

 では、→を否定・無化した近代主義は、この否定によって、どういう事象を引き起こすのかという原理的問題がある。実際的結果は、超大惨事 ・破局・悲劇・悪夢 であったことは、否定できない。理論 的に考察 しよう。→を否定・無化することは、自然 の根源的力=エネル ゲイ アを否定することになるのである。すると、当然、根元的力がブロック されるので、反動 的力が作用するのである。反作用である。この反動 的力が暴力 なのである。社会学 的に言えば、ホッブズ の万人の万人に対する戦争 である。あるいは、狂気である。パラノイア や人格障害 のような精神 病理・狂気である。そして、近代資本主義 の攻撃力である。つまり、資本 を連続 ・同一性化したために、資本 のもつ差異的エネル ゲイ アを否定しているので、暴力 ・狂気・非合理主義的な連続 ・同一性主義的資本主義 が生まれたのである。西欧・米資本主義 とは、このようなものであり、植民地主義 、帝国主義 、冷戦 、等々を生んだのである。結局、近代という時代は、人類史において、最悪の時代として記録されるのは、確実である。《悪魔 》が支配したのであるから。

 とまれ、今や、大局的に見ると、否定・無化された→が復活し、ポスト ・西欧近代のエポック 、即ち、新東洋文明の黎明期 を迎えているのである。反動 であったフランス・ポストモダン もとっくに終焉して、今や、真のポスト ・西欧近代、ポスト ・ウェスタン ・モダン である。ネオ ・プロト モダン である。ネオ ・ルネサンス である。東洋ルネサンス である。

 しかしながら、現代日本は、世界でいちばん、近代主義に汚染されて、超倒錯の社会 になっているのである。近代狂人 たちの社会 なのである。近代狂気から覚醒しないといけない。

f:id:sophiologist:20061102172928j:image

http://www.zion-jpn.or.jp/pics/k02.jpg

 狂気近代日本からのエクソダス である。今や、新東洋文明という約束の地が見えたのである。ピスガ山越えである。そう、ヘルダーリン 、キルケゴール 、メルヴィル 、ニーチェ 、フッサール 、鈴木 大拙 、西田幾多郎 、ウスペンス キー、D.H.ロレンス 、折口信夫 、多くの天才たちが、ピスガ山に達して、新たな約束の地である新東洋文明を指し示していたのである。

Overcome Continuous Identity Modern!

Practice and Realize Exodus

from the Most Insane Modern to New Orient !


http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20061103

から
posted by sophio at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 新東洋文明 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

連続的差異と同一性:近代の終焉と新東洋文明

今は、簡単に触れるに留めるが、私が問題にしたいのは、先に述べた不連続的同一性と連続的同一性の問題である。領域で言えば、メディア/現象境界の事象である。これは、正確には、不連続的差異論の問題であるが。同一性の問題に関して、重要な問題なので、精緻に考察したい。
 端的に言えば、差異=微分の連続体・積分に基づく同一性と不連続的差異の同一性(特異性の同一性)の問題である。もっとも、これは、不連続的差異論の成立の基礎になった問題で済んでいるものではあるが、近代科学の問題に関係するので、ここで取りあげるのである。ここで、図式化すれば、☯→=が、メディア界から現象界への図式図である。Kaisetsu氏の自己認識方程式を使用すれば、(i)・(-i) ⇒1である(この記号の方が、内在超越性ないし超越次元性を提示できるので、的確である。もっとも、Kaisetsu氏は、一人称と限定して、厳密化しているが。)。差異=微分ないし連続的差異という虚構・仮構は、☯ないし(i)・(-i)という事象を認識せずに、連続同一性とその集合を意味するのである。連続同一性を、ci(continuous identity)とすれば、ciの連続・集合体として根源界があることになるのである。ci, ci, ci, ・・・ci が、連続同一性集合体である。そして、これを積分したものが現象的同一性である。∫ciである。ここでは、連続同一性のciが共通単位となったいるのである。
 しかし、☯ないし(i)・(-i)という事象においては、当然、ciは存しないのであり、差異1☯差異2☯・・・☯差異n(思うに、差異1(i)・(-i)差異2(i)・(-i)・・・(i)・(-i)差異nと表現できるのではないか)が存在しているのであり、ここにあるのは、個々別々の不連続的差異の極性共立即ち即非である。どこにも、ciは存しないのである。ただし、即非的同一性が形成されるだろう。→=ないし⇒1である。これを私は、先に不連続的同一性と呼んだのである、ciが連続的同一性であるのに対して。
 フッサール現象学にも通じるが、近代科学は、ciをベースにして、それを数量形式=「物質」形式化して成立しているのであり、☯ないし(i)・(-i)という事象、あるいは、志向性を認識していず、無視している結果になっているのである。結局、差異=微分=連続的同一性=「物質」形式が、近代科学、唯物科学の基礎・基盤・大前提なのである。
 問題は同一性である。近代科学の同一性(ヘーゲルの観念形式)だと、個物・個体は、一般的個体になり、特異性を喪失しているのである(参考:ヘーゲル哲学:個別性は一般性である。)。ここでは、唯名論的個物・個体が、実念論的観念と一致するのである。これは、まったくの画一性、機械的同一性である。この連続的同一性が、近代的現代を支配しているのである。資本主義も、連続的同一性資本主義なのである(有り体に言えば、金融資本主義である)。そして、これを、フッサールは晩年の『ヨーロッパ諸学(諸科学)の危機と超越論的現象学』で説明していると考えられるのである。
 私が言いたいのは、事象は、不連続的同一性、特異性的同一性であるのに、それを、連続的同一性であると誤解していることである。これは、フッサールの『危機』を不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の視点から言い換えたものである。つまり、現象という事象としての「もの」は、不連続的同一性=特異性的同一性であるにもかかわらず、近代的人間は、それを、連続的同一性として誤謬して見ているということである。つまり、近代科学幻想で、現象を見ているのであり、真の現象事象を看過されているということなのである。生活世界は、この真の現象事象を経験したものにほかならないだろう。近代主義は、連続的同一性幻想・妄想・狂信なのである。
 今や、近代は、完全に、終焉したのである。これが、ポスト西欧近代主義ないしポスト近代西欧主義である。では、いったい何が、ここで、出現したのだろうか。コスモス、プラトニック・シナジー界、メディア界、「玄牝」・太極(陰陽太陽)、等が出現しているのである。新たに、古代、東洋、アジア、母権制が復活しているのである。新しい古代ー東洋ーアジアー母権制である。新しいコスモス、新しいガイアである。新しい多神教である。新しいイシス・オシリスである。私は、
新東洋文明と呼びたい。
posted by sophio at 02:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 新東洋文明 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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