2006年10月30日

(i)・(-i)というプラトニック・シナジー界の内包する意味:イデア界の位置づけと二つの同一性

先にKaisetsu氏が提起された自己認識方程式、即ち、(i)・(-i)⇒1は、オイラーの等式や黄金比、等に匹敵する、否、それ以上の根源的方程式・公式のように思える(p.s. 即ち、大発見である)。とりわけ、(i)・ (-i)の部分である。これは、不連続的差異論のメディア界を指すが、プラトニック・シナジー理論では、零度差異共振シナジー界、即ち、プラトニック・シナジー界を意味する数式であると考えられる。換言すると、ここに、プラトニック・シナジー理論のエッセンスが凝縮されていると言っても言い過ぎではない。
 私は、ここから、不連続的差異論のイデア界との関係、あるいは、空間、時空間の問題を考察したいと思っている。イデア界との関係は、用語の問題が少しある。プラトンのイデアとは、ほぼ、プラトニック・シナジー界の「イデア」であると思えるのである。だから、区別するために、「メディア」という用語を使うべきかもしれないが、これも、混乱させる恐れがあるのである。
 とまれ、たとえば、プラトン的に、花のイデアとは、プラトニック・シナジー界に存すると言えるのである。花のイデアとは、デュナミスであり、また、エネルゲイアである。(ちなみに、アリストテレス哲学の問題は、超越次元を無視しているところである。プラトンの超越次元を、プラトニック・シナジー理論では、虚軸を、無視しているのである。)そして、花のイデアのあるプラトニック・シナジー界とは、プラトンのコーラ(形態形成場と考えられる)に相当するし、西田哲学の場所も、ここに相当するだろう。また、当然、鈴木大拙の即非論理学の位置(トポス)もここである。(思うに、ドゥルーズ&ガタリは、離接という概念を提起したが、それは、とりもなおさず、即非の論理のことである。しかし、彼らの不十分さは、離接を内在平面に置いていることである。内在平面とは、プラトニック・シナジー理論から言うと、プラトニック・シナジー空間、即ち、メディア空間の連続・同一性平面である。差異=微分空間である。これは、即非空間ではないのである。ところで、今思ったのは、同一性と連続的差異とは異なるのではないかということである。これについては、後ほど検討したい。)
 では、イデア界とは、プラトニック・シナジー理論から見たら、どう位置づけられるのだろうか。Kaisetsu氏のガウス平面的プラトニック・シナジー理論から見ると、虚軸が、プラトニック・シナジー界であり、実軸が現象界(「現実」界)であり、現象界を空間三次元とすると、虚軸が時間軸であり、それで、時空四次元が形成される。いわば、プラトニック・シナジー四次元時空間である。
 では、イデア界を付け加えるには、どう考えたらいいのだろうか。これまでの考え方では、イデア界のX軸の1/4回転で、メディア界のY軸が形成されると考えてきた。しかし、今では、X軸実軸は、現象界のことになっているのである。私は、先に二種類の1/4回転があるだろうと述べた。第一番目の1/4回転が、イデア界からメディア界を形成し、第二番目の1/4回転が、現象界を形成するという考え方である。そうすると、第五次元以上を考えることになる。作業仮説的に、プロトX軸、原X軸を考えれば、それが、イデア界になるだろう。あるいは、X軸をイデア界、Y軸をプラトニック・シナジー界、Z軸を現象界として考えることができるのではないだろうか。そうすると、プラトニック・シナジー界(メディア界)と現象界は、Y軸とZ軸との関係になると考えられる。
 ならば、イデア界は、X軸であり、XY平面とYZ平面の二つのガウス平面が生起するのではないだろうか。用語・概念の問題であるが、プラトニック・シナジー平面(メディア平面)は、YZ平面であり、イデア平面はXY平面になるのではないだろうか。
 とまれ、この空間視点から、上記した同一性と差異=微分の問題を考えると、思うに、同一性ないし連続・同一性とは、Z軸上の実数であろう。しかし、差異=微分の考え方とは、虚軸Y軸の即非論理を認識せずに、虚軸Y軸に連続的差異を想定していると言えるだろう。つまり、虚軸Y軸と実軸・現象軸・Z軸との直交関係を否定して、両者を一様のものとしているのである。つまり、虚軸と実軸の不連続性ないし内在超越性を認識せずに、連続・内在性を見ているのである。つまり、連続的差異の展開としての同一性である。連続的差異とは、内在平面に存すると、ドゥルーズは考えているのである。だから、この視点の同一性とは、連続的差異的同一性である。
 しかるに、プラトニック・シナジー理論における同一性とは、(i)・(-i)の即非的極性における同一性であるから、不連続的差異的同一性なのである。私が眼前に見るリンゴは、不連続的差異的同一性、あるいは、特異性的同一性のリンゴなのである。これを連続的差異的同一性のリンゴと見たら、唯物論である。唯物科学・量子論的リンゴとなるだろう。両同一性は、似て非なるものである。簡単に表記すれば、連続的同一性と不連続的同一性である。これは、まったく別のものである。どうも西洋哲学ないし哲学一般は、両者を区別して来なかったように思える。唯名論と実念論の問題、即ち、個物と観念の問題、あるいは、アリストテレス哲学とプラトン哲学の問題、唯物論と観念論の問題、等々。この問題は、現象界と超現象界の問題に還元することができるだろう。つまり、二項対立、二元論なのである、現象界主義か超現象界主義か、の問題にされてしまったのである。個物かイデアか、ということになるのである。ヘーゲルは、これを統一しようとして、弁証法を構築する。しかし、それは、連続的差異=観念の統一仮説であり、一般形式理論なのである。ヘーゲルは、個物は、同一性であるとして、この同一性観念から統一を志向するのである。しかし、この同一性は、不連続的同一性ではなくて、連続的同一性である。特異性が喪失されているのである。(特異性は、キルケゴールが宗教批判として展開することになった。)
 連続的差異論とは、言い換えると、アトム論である。現象の個体・個物の根源要素として「アトム」を考え、これが、連続して個体・個物が形成されるという考えである。単位の連続的集合としての個体・個物である。そして、この連続論においては、唯物論も観念論も同形である。連続的形式が共通なのである。つまり、唯物論とは、個物の連続的形式として物質を考えるのであり、観念論とは、個物の超次元としての連続的形式としての観念を想定するのである。つまり、西洋哲学は、特異性ないし単独性を看過しているのであり、これに対する批判が、キルケゴール、ニーチェ、フッサールによってなされたと言える。東洋からの批判者としては、鈴木大拙や西田幾多郎がいるのである。また、ロシア(ロシアは、ユーラシアと見ないといけないだろう)からは、ウスペンスキーが出たのである(『地下生活者の日記』のドストエフスキーも、これに近いだろうが、ドストエフスキーの発想は、シュティルナーの唯一者と共通すると考えられるのである。つまり、一見単独者であるが、それは、エゴイストである。つまり、(i)・(i)=−1と思われる。後で検討。)
 そして、フランス・ポストモダン(このように言えば、ポスト・モダンの用語はプラトニック・シナジー理論の発見の後でも、使用できる)は、これを発展するはずであった。とりわけ、ジル・ドゥルーズは、特異性singularityに注目して、差異哲学の創造を目指したのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論の成立の経緯からわかるように、ドゥルーズの差異理論は、たいへんな誤謬を犯していたのである。ポスト・ヘーゲル、即ち、ポスト・モダンという思想環境にありながらも、ドゥルーズは、連続的差異、即ち、ヘーゲルに戻るという反動行為を犯してしまったのである。そう、ドゥルーズ理論は、大反動であり、際物理論である。非常にたちが悪いのである。なぜなら、特異性singularityと言いながらも、連続的差異(差異=微分)を主張しているからである。これは、虚偽的誤謬である。ペテンである。
 さて、本論にもどると、結局、西洋哲学は、連続的形式に拘束されていたが、ポスト・ヘーゲル=ポスト・モダンとして、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、鈴木大拙、西田幾多郎、ウスペンスキーらが出現して、不連続論を提出し、ポスト・モダン環境を構築したのである。しかし、これは、フランス・ポスト・モダンという大反動によって、目隠しされてしまったのである。日本においては、フランス・ポスト・モダンを信奉する唯物論的知識人たちによって、ポスト・モダン環境が排除・隠蔽されてしまったのである。(私見では、真正なポスト・モダンに近づいたのは、柄谷行人であろう。しかし、彼は、唯物論者で、差異・「イデア」を把捉・理解できなかったのである。また、中沢新一であるが、彼は、ドゥルーズ主義者であり、似非理論家である。)そう、ポスト・モダンは、フランス知識人によって、葬られてしまったのである。似非ポスト・モダンであったのである。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論は、ポスト・モダンの本流を復活させて、進展させたのであり、これは、連続的差異論を批判・否定して、不連続的差異である特異性のイデア論の創造的発見である。だから、本論にもどると、二つの同一性があるのであり、これを区別しないといけないのである。不連続的同一性と連続的同一性である。数式化すると、(i)・(-i)⇒1という同一性と(i)・(-i)=1という同一性である。このように考えて、先の私の考察の複雑さ、微妙さがわかるのである。具体的に言えば、眼前の柿一個であるが、これは、正しくは、不連続的同一性である現象、(i)・(-i)⇒1である。これに対して、それを連続的同一性である現象、(i)・(-i)=1と見れば、仮象である。
 さて、このよう現象同一性を見ると、プラトンのイデア論はどうなるのだろうか。現象界はイデア界の仮象であると考えているのである。(i)・(-i)から見れば、確かに1という同一性は仮象になるだろう。しかし、(i)・ (-i)⇒1から見たときは、どうだろうか。⇒1は、仮象なのだろうか。1は仮象ではなく現象である。本象であろう。思うに、ここには、プラトンのイデア論とプラトニック・シナジー理論の差異があるのではないだろうか。前者は、現象仮象論であるのに対して、後者は現象本象論である。眼前のリンゴ一個の同一性は否定すべくもないのである。これを仮象としたら、生活は成り立たないのである。この点についは、後でさらに検討したい。

プラトニック・シナジー経済と『超越的価値』:明日野氏の論考の紹介

以下、明日野氏のすばらしい「プラトニック・シナジー経済」への概念が述べられているので、ご紹介します。
 とても、含蓄のある論考だと思います。後で、考察したいと思います。

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2006.10.30 Monday

価値の二面性についての若干の考察

次のrenshi氏の論考に触発されて考えた。

TOWARDS PLATONIC SOPHIENCE
Sun, October 29, 2006 23:49:00
何故、現象に没入するのか:同一性価値経済と差異価値経済:プラトニック・シナジー経済へ向けて
テーマ:プラトニック・シナジー経済



『価値』には、超越的価値と世俗的価値が存在するのである。
これは、マルクスの「使用価値」と「交換価値」と似ているが、むしろ、マルクスの概念を拡張した概念であり、より一般性をもつ概念である。
 超越的価値とは、そのものの存在形式であり、哲学的には「形質」と呼ばれるものだ。「質」である。
 世俗的価値とは、有用性とか、量的な把握とか、現世利益に置き換えられる価値である。
 所謂、イデアとは、超越的価値に関する概念である。
 マルクスの「使用価値」「交換価値」は、全て、世俗的価値に関する理論にすぎない。
 貨幣とは、『王の紋章を戴く命令の財産的裏づけ』と考えている。現代の『王』とは国家である。将来の王とは?コミュニティーであろうか、それとも国際機関であろうか?ノマッドか?
 どのような形であれ、情報化社会に於ける『貨幣』は、プラトニック・シナジー理論に沿う様式を持ち始めると考えている。
 つまり、超越的価値の体現である。
 このためには、世俗的価値の地位を貶める必要が在る。
 世俗的価値を身体にするのだ。
 このために、銀本位制を提唱したい。
 世俗的価値の裏づけを同じにして、『王』の紋章⇒「情報」による差異によって、超越的価値を体現するのだ。
 個人でも、銀の裏づけを持って、『王の立場』で貨幣を発行可能だ。個人が国家よりも『超越的価値』で勝っていれば、この『個人』の通貨が広く流布する。
 ユヌス氏とグラミン銀行の実験は、まさに、小さな母体であっても、『超越的価値』の見地からは、国際機関や国家よりも大きな超越的価値を具現できることを証明している。

http://theory.platonicsynergy.org/?eid=396624

Theories for the Platonic Synergy Concept.

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以下は、私の記事です。


http://ameblo.jp/renshi/entry-10019095729.html#c10031177847

Sun, October 29, 2006 23:49:00
何故、現象に没入するのか:同一性価値経済と差異価値経済:プラトニック・シナジー経済へ向けて
テーマ:プラトニック・シナジー経済
リンゴ1個、いくら、柿1個、いくら、等々。物には、価格があり、売買される。リンゴ1個=同一性価値とされて、これが、人間を同一性に埋没させる根因ではないのか。本当は、リンゴ1個は差異価値なのに。リンゴ1個、二百円である。これが同一性・一般価値とされる。これは、プラトニック・シナジー価値の半面である同一性価値だけを取り出したものである。この同一性価値が支配して、差異価値を排除しているのである。人間も、同一性人間となり、差異人間を排除する。これが、現代日本である。
 しかし、ここには、差異がないので、すべてはメカニズムである。経済に差異価値を取り戻す必要があるのである。差異貨幣、差異資本が必要なのである。
 Kaisetsu氏の自己認識方程式から見ると、=1の同一性価値の経済世界となっていると言えよう。(i)・(-i)⇒1、⇒1の差異を内包した経済世界が必要である。これは、ある意味で精神経済の必要である。(i)・(-i)であるプラトニック・シナジー・エネルゲイアという「精神経済」の必要である。そう、ルネサンス経済である。これを創造したいのである。プラトニック・シナジー資本経済である。プラトニック・シナジー貨幣が必要でもある。これは、創造資本経済なのである。
 では、具体的にはどういうことなのか。リンゴ1個100円としよう。これを売ったお店は、利益を10円としよう。10円のうち、創造資本経済のために、5円蓄えるのである。買った人は、リンゴ1個を食し、創造資本経済のための身体を形成するのである。
 創造資本経済は、(i)・ (-i)経済である。これは、精神のエネルゲイアが作動しているのである。気のエネルゲイアと言ってもいいだろう。差異共振エネルゲイア経済である。宇宙共振経済である。差異共振貨幣が必要だろう。現在の貨幣は、同一性資本貨幣である。それは、エントロピー貨幣である。コスモス貨幣が必要である。魂と貨幣が共振しなくてはならない。精神貨幣である。
 後でさらに整理して検討したい。

参考:
紫色の牛が よく売れる時代☆
http://ameblo.jp/pilot/entry-10019036166.html

コメント

■若干の考察をしました。

2006.10.30 Monday
価値の二面性についての若干の考察
次のrenshi氏の論考に触発されて考えた。
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=396624
Kaisetsu (2006-10-30 01:31:27)

2006年10月28日

「イデア」(=差異共振イデア)と「物質」との関係:あるいは、「物質」とは何か:「もの」と物質V4

Kaisetsu氏の以下の論考は、コメントされているように、本件の考察と共通するものがある。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10018941143.html#c10031001140
一言で言えば、メディア界ないし差異共振シナジー界と現象界との非対称性である。これは、まず、確認しておくべきことである。非対称は、不連続と呼んでもかまない。この絶対的断層は、実に根本的な論点であり、これをこれまでの、ほとんどの哲学/科学(例外は、キルケゴールやニーチェやフッサールや鈴木大拙やウスペンスキーである。西田幾多郎も含めていいかもしれない)は認識せずに、連続性の理論に留まり、袋小路に入ってしまったのである。そして、不連続的差異論を包摂したプラトニック・シナジー理論は、この例外の理論を総合し、さらに進展し続けているのである。

 さて、本件の問題をさらに続けたい。同一性と現象というテーマで検討したい。先の論考では、同一性は同一性仮象ということになった。少し不分明であるのは、同一性自体の意義である。果たして、同一性という事象が存しているのか、それとも、それは、単に仮象ないし虚構に過ぎないのか、という問題があるのである。あるいは、仮象や虚構とは何かという問題でもある。
 ここでも、私の直観から話を進めよう。私は、個体は特異性であると考えている。例えば、眼前の一個のリンゴは、特異性なのである。その隣にあるリンゴも特異性である。では、リンゴという事象自体は、何なのか。明らかに、同一性である。(先に、リンゴという事象において、同一性と特異性が併存・共立していると述べた。)そして、また、同一性は仮象であると述べた。即ち、同一性仮象と考えた。結局、同一性と同一性仮象とが併存していることになるのである。どちらが、正しいのか、それとも、・・・。
 考察を簡単にするため、もっとも単純に図式化しよう。

リンゴの「イデア」:差異1☯差異2

リンゴの現象:差異1☯→=差異2 (又は、差異1☯→ー差異2)

としよう。ポイントは、☯→=(ないし☯→ー又は☯→ー・=)にあると言えよう。同一性としてのリンゴは→=ないし=である。特異性としてのリンゴは、差異1☯→=差異2総体にあると言えよう。→=と=は、微妙な点である。特異性としてのリンゴの同一性とは、前者、すなわち、→=ではないだろうか。そして、日常、同一性としてのリンゴを意識する場合は、=であろう。
 そうならば、現象としてのリンゴは、どちらなのだろうか。それは、両方考えられるだろう。特異性における同一性ならば、→=であるし、単なる同一性ならば、=であろう。現象界においては、両者が混淆ないし共立・併存していると言えるだろう。
 では、本論の仮象の問題であるが、同一性とは仮象なのであろうか。同一性は現象ではある。これも微妙な問題である。リンゴの「イデア」の現象としてのリンゴの同一性は仮象ではなく、「イデア」のもつ現象という側面である。それは、いわば、本象(ほんしょう)である。「イデア」が本体であるとすれば、本象としての同一性現象である。仮象ではないのである。
 では、何故、仮象という考えが出てくるのか。それは、単なる現象としての同一性を見たときに、生起する考えであろう。つまり、「イデア」を喪失して、単に現象のみを考えるならば、現象は仮象となるのであろう。結局、同一性は、仮象か現象かの問題は、視点・コンテクストに拠ることになったのである。
 さて、次に、ここで得られた観点から、近代科学、唯物科学・物質主義科学について考察しよう。それの問題は、「イデア」を否定して、単に現象のみを本体とし、それを数量的に総合化する点にあると言えよう。つまり、「イデア」理論ないし「イデア」科学から見れば、仮象理論、仮象科学である点が問題なのである。つまり、同一性中心主義であり、同一性を数量・定式化・総合化して、現象を説明している点である。完全に、差異や「イデア」を否定して、同一性現象=物質として捉えているために、説明できない現象が多く生じているのである。精神現象・心的現象・宗教現象、量子力学の非局所性、ダークエネルギーやダークマター、気の現象、共時性(シンクロニシティ)、存在現象、等々が説明できないのである。そして、明らかに、行き詰まっているのである。いわゆる、ニューサイエンス、ニューエイジ・サイエンスにしろ、物質科学と精神・宗教現象との折衷で終わっているのである。つまり、つまり、量子と精神を、類似性から、等価して、理論的整合性は不問のままで終わっているのである。
 結局、唯物論か「イデア」論かである。そして、プラトニック・シナジー理論は、後者の立場で、多くのアポリアを解決し、また、しつつ、あるのである。
 最後に、同一性の問題に再度触れると、近代主義とは、同一性中心主義であり、差異を喪失した思想であると言えよう。ポストモダン、ポスト近代とは、だから、ポスト同一性中心主義であり、差異主義なのである。しかるに、これまで、執拗に繰り返し述べたように、いわゆるポストモダン運動は、同一性との連続した差異を考えていたために、まったく不十分なのであった。ポストモダンの原点であるキルケゴールやニーチェやフッサールの理論、あるいは、鈴木大拙の理論には、ポスト連続的差異の理論があったが、それを認識できなかったのである。おそらく、ポストモダンの流産ということが言われるはずである。これは、きわめて、由々しき問題である。後で、検討したいが、簡単に述べると、連続性の思想とは、これまで、述べたように、全体主義やファシズムの思想である。これは、右翼・左翼を問わない。共産主義・社会主義にも関係するのである。そう、近代的自我、近代合理主義に関係するのである。換言すると、同一性連続主義である。これが、近代主義や通俗のポストモダンを拘束していたものである。コギトとは、本来、特異性である。これが、同一性中心主義へと展開していったのである。思うに、デカルト哲学自体が、矛盾しているのである。コギトの哲学は、特異性の哲学であるが、いわゆるデカルト合理主義は、同一性中心主義である。つまり、まったく異質な理論をデカルト哲学ははらんでいたのではないだろうか。コギトは、特異性自己であり、その展開として、同一性自己が発生するのである。この同一性自己と同一性中心主義が結びついて、いわゆるデカルト合理主義となったのではないだろうか。カントは、デカルトの同一性自己→同一性中心主義の側面を超越論的形式としたのであり、コギトの特異性や現象の特異性は、実践理性や物自体に留めたと言えるだろう。コギトの特異性を深化させたのは、キルケゴールやニーチェやフッサールであったと言えるだろう。(作家や芸術家は除いておく。メルヴィルやD.H.ロレンスはコギトの特異性の作家であるが。)あるいは、仏教哲学者の鈴木大拙や西田幾多郎がそうである。
 おそらく、近代哲学、近代理論の不幸が言えるだろう。ルネサンスは、ネオ・プラトニズムをもっていたが、それを、哲学に活かしたのは、おそらく、スピノザぐらいであろう。ただし、ネオ・プラトニズムは、流出論であり、連続論であるのに注意しないといけない。つまり、問題は、近代におけるイデア界ないしイデアの次元である。ルネサンスにおいては、イデア界やイデアの次元があったが、それを、科学理論的には喪失していったのである。やはり、科学理論におけるアリストテレス主義の問題があるのかもしれない。あるいは、プラトン主義とアリステレス主義の分裂という西洋文明の問題である。二元論である。唯名論と実念論の分裂。
 とまれ、不連続的差異論そしてプラトニック・シナジー理論によって、西洋文明の二元論は、完全に超克されたと言えるのである。ポスト西洋文明であるが、新東洋文明なのか、それとも新東西文明なのか。思うに、東西文明の分離自体が怪しいのかもしれない。

「イデア」(=差異共振イデア)と「物質」との関係:あるいは、「物質」とは何か:「もの」と物質V3

「イデア」(=差異共振イデア)と「物質」との関係:あるいは、「物質」とは何か:「もの」と物質:Ver3

「イデア」の影としての現象である。現象としての「もの」と物質としての「もの」は違うだろう。例えば、「わたし」が触れる水は、前者であるが、これをH2Oと見るのが後者である。現象的「もの」と物質的「もの」とは別のものである。プラトニック・シナジー理論的に言えば、現象的「もの」とは、同一性現象であり、物質的「もの」とは、同一性形式現象ではないだろうか。
 もっとも、私は、現象的「もの」とは、特異性であると主張してきているのであり、そうすると、同一性(現象)と特異性との関係が問題になるのである。私が、現象的「もの」に接するとき、例えば、「もの」を見るとき、それは、光の影像を見ているのである。そして、「もの」に触れれば、それは、感覚像に触れているのである。つまり、なんらかの現象像、現象感覚像に接しているのである。(ここには、知覚、言語、認識の問題が入るが、議論の簡略化のため、おいておく。)
 この個々の現象像は、同一性個体である。例えば、これは、一つのみかんであり、隣にあるのは、別の一つのみかんである。私が見る、触れる、食べるみかんは、みかんとしては、同一性であるが、同時に、特異性(個)であると私は考えるのである。つまり、現象像としてのみかんは、同一性であり、且つ特異性であるということである。例えば、みかんの「イデア」を差異1☯差異2☯・・・☯差異nと考えよう。これが、連続・同一性化すると、差異1=差異2=・・・=差異nになるとしよう。=は、みかんの同一性である。差異をdと表記して、記号化しよう。

みかんの「イデア」:d1☯d2☯・・・☯dn

みかんの現象:d1=d2=・・・=dn

である。後者の問題は、差異が等号化されていることである。これは、矛盾であるが、このままにしておこう。そして、物質としてのみかんを考えると、

物質としてのみかん:同一性1ー同一性2ー・・・ー同一性n

である。この同一性1は、たとえば、ビタミンCであり、同一性2は、クエン酸である。これらが、集合連続体(「有機体」)となったものが、物質としてのみかんである。
 ここで、現象としてのみかんと物質としてのみかんを比較してみよう。前者における=が、同一性であり、これが、物質としてのみかんを形成していると考えられる。(同一性であるが、正確には、連続・同一性であり、記号はー・=と表記すべきであるが、簡略のため、同一性=を使用する。)物質としてのみかんには、差異が欠落しているのである。ここで、煩雑ではあるが、精緻・正確に図式化・記号化してみよう。

「イデア」としてのみかん:d1☯d2☯・・・☯dn

              ☯   ☯    ☯
現象としてのみかん:  d1↓ d2↓・・・ ↓dn
              =   =    =


↓  の記号は、メディア界から現象界への移行を示す。


図式化の都合上、これを☯→=と表記することにする。即ち、


現象としてのみかん:d1☯→=d2☯→=・・・☯→=dn

となる。(先の現象としてのみかんの=は、☯→=の意味であったのであり、これならば、矛盾はなくなるのである。)物質としてのみかんは、等号の側面である。すると、差異はなくなり、同一性の集合・連続体となる。

物質としてのみかん:同一性1ー同一性2ー・・・ー同一性n

又は、Id1ーId2ー・・・ーIdn(ただし、Idは、同一性Identityの略であり、ーは連続性の記号である。)そして、例えば、同一性1がビタミンC、同一性2がクエン酸、等々となるのだろう。物質自然科学ないし唯物自然科学は、この同一性の連続体を分析・解明しているだけに過ぎないのであり、現象としての「もの」を捉えていないのである。カントの物自体とは、実は、この現象としての「もの」(この場合は、現象としてのみかん)を意味すると言えよう。また、当然、これは、「イデア」を内包しているのである。端的に言えば、☯→=(「イデア」→同一性)が物自体のポイントである。
 ここで、私が考える個体・個物の特異性について言うと、それは、☯→=の☯→の部分が当たるだろう。つまり、差異ないし「イデア」のもつ同一性への志向性である。これが、特異性なのであり、これを、物質科学は、看過・無視しているのである。これは、エネルゲイアとも言えるだろう。しかし、単に物質エネルギーではない。物質エネルギーの本体としてのエネルゲイアである。つまり、エネルゲイア(同一性への志向性)の物質像が、エネルギー(物質エネルギー)であると考えられるのである。【ここで、想起するのは、ドゥルーズの説いた強度であるが、それは、このエネルゲイアのことを本来意味していると見るべきであろう。しかしながら、ドゥルーズは、連続的差異(差異=微分)を考えているので、強度と物質エネルギーとが混同されていると考えられるのである。ということで、エネルゲイア=強度としていいだろう。】
 さて、残りの問題は、☯→=における同一性への志向性と同一性自体との関係である。この問題は、これまで、気がついていたが、いわば、留保しておいた問題である。つまり、同一性とは、純粋に同一性なのか、それとも、同一性の影ないし疑似同一性なのか、という問題である。現象としてのみかんとは、同一性をもっている。みかん1,みかん2,みかん3,・・・は、みかんとして同一性である。だから、単純に、同一性は存在していると見ていいように思えるが・・・。私が問題にしているのは、実体として同一性は存在しているのか、どうかである。イデア論ないしプラトニック・シナジー理論から言えば、実体は差異だけにあり、同一性は、影像に過ぎないだろう。
 問題の視点を変えよう。「もの」として考えよう。現象としての個体・個物は、「もの」である。そして、これは、☯→=という志向性をもっているのである。現象・「もの」としてのみかんd1☯→=d2☯→=・・・☯→=dnであるから、現象・「もの」ないし個体・個物としての「同一性」とは、やはり、☯→=の強度の帰結に存すると言えるのではないだろうか。つまり、志向性の終点としての「同一性」であり、それは、極言すれば、差異の様態としての「同一性」ではないのか。
 問題を明晰にしよう。みかんと言う場合、確かに、みかんは同一性である。これは、疑いようがない。それを、リンゴと呼んだら誤謬である。みかんの同一性とリンゴの同一性は、排他的である。ここには、排中律がある。しかし、この同一性は、☯→=のことではないだろうか。同一性への志向性ではないだろうか。同一性への志向性が同一性になっているのではないだろうか。
 より精緻化して考察しよう。☯→=は、正確には、☯→ー・=である。つまり、連続・同一性への志向性である。そして、これが、現象・「もの」・個体/個物を生起させるのである。だから、通常、同一性としての現象とは、連続・同一性への志向性としての現象ということになる。だから、みかん1,みかん2,・・・等の同一性としてのみかんとは、連続・同一性ヘの志向性の終点である。有り体に言えば、同一(同一性)に見えるということである。見えである。見えとしての同一性であり、これは、理論的には、連続・同一性への志向性の終点である。
 ということで、同一性は、仮象・虚構・見えに過ぎないのである。(換言すると、見えとしての同一性と同一性が混同されているということである。)この同一性への志向性と同一性とが、現象界・「現実」において、混同されていると言えよう。そして、物質科学・唯物科学は、これを踏襲しているのである。見えとしての同一性を同一性自体として捉えて、理論化しているのである。つまり、同一性科学なのである。カントの用語を用いれば、超越論的形式科学である。この同一性=超越論的形式を数量・計量化して、近代科学・唯物科学が形成されたのである。だから、数量同一性科学である。これは、現象を「捨象」した科学である。現象のもつ個物・「もの」・特異性を捨象した科学である。言い換えると、連続・同一性への志向性を捨象した科学である。これは、差異・「イデア」・差異共振シナジー事象を捨象した科学である。仮象科学である。現象科学ではないのである。これで、近代科学批判が成立した。
 では、ここで、フッサール現象学を想起するのであるが、フッサールは、正に、連続・同一性への志向性を理論化した大天才である。ポスト同一性科学・ポスト近代科学としての現象学である。以上の検討から、現象学は、現象科学と呼ばれてしかるべきである。あるいは、「イデア」科学ないし差異科学(差異共振シナジー科学)である。生活世界ないし生活界とは、メディア界の発現としての現象界のことだろう。近代科学は、現象ではなくて、同一性仮象を対象としている同一性仮象科学である。それは同一性仮象界ないし仮象界を対象としている。換言すると、ヴァーチャルな世界を対象としているのである。
 ニーチェ哲学とフッサール哲学と鈴木大拙即非哲学/ウスペンスキー思想を継承し総合化した新イデア論であるプラトニック・シナジー理論は、当然、現象科学・「イデア」科学・生活界科学・叡知科学(ソフィエンス)でもある。

2006年10月27日

「イデア」(=差異共振イデア)と「物質」との関係:あるいは、「物質」とは何か:「もの」と物質

「イデア」の影としての現象である。現象としての「もの」と物質としての「もの」は違うだろう。例えば、「わたし」が触れる水は、前者であるが、これをH2Oと見るのが後者である。現象的「もの」と物質的「もの」とは別のものである。プラトニック・シナジー理論的に言えば、現象的「もの」とは、同一性現象であり、物質的「もの」とは、同一性形式現象ではないだろうか。
 もっとも、私は、現象的「もの」とは、特異性であると主張してきているのであり、そうすると、同一性(現象)と特異性との関係が問題になるのである。私が、現象的「もの」に接するとき、例えば、「もの」を見るとき、それは、光の影像を見ているのである。そして、「もの」に触れれば、それは、感覚像に触れているのである。つまり、なんらかの現象像、現象感覚像に接しているのである。(ここには、知覚、言語、認識の問題が入るが、議論の簡略化のため、おいておく。)
 この個々の現象像は、同一性個体である。例えば、これは、一つのみかんであり、隣にあるのは、別の一つのみかんである。私が見る、触れる、食べるみかんは、みかんとしては、同一性であるが、同時に、特異性(個)であると私は考えるのである。つまり、現象像としてのみかんは、同一性であり、且つ特異性であるということである。例えば、みかんの「イデア」を差異1☯差異2☯差異3と考えよう。これが、連続・同一性化すると、差異1=差異2=差異3になるとしよう。=は、みかんの同一性である。つまり、言い換えると、差異1=みかん「イデア」=差異2=みかん「イデア」=差異3である。差異をdで、みかんの同一性をMIで表記して簡単にしよう。

MI(みかんの「イデア」):d1☯d2☯・・・☯dn

現象のみかん:d1=MI=d2=MI・・・MI=dn

となる。私が触れる現象のみかんは、=MIの同一性をもっているが、しかるに、 d1、d2、・・・、dnを内包している。これが、特異性に当たるだろう。
 物質としてのみかんは、みかんの同一性MIだけである。これは、ビタミンCであったり、クエン酸であったり、植物繊維であったり、水分H20であったり、するだろう。
(参考:みかんhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%B3
つまり、=MIとしてのみかんである。例えば、d1=MI=d2がビタミンCであり、d3=MI=d4がクエン酸であるとしよう。それらの集合連続体としての同一性のみかん、物質としてのみかんである。
 ということで、現象としての「もの」と物質としての「もの」との区別ができたであろう。両者、同一性が共通であるが、前者には、特異性があり、それは、影である差異共振性であると言えるのではないだろうか。
 「もの」という言葉であるが、それは、同一性と特異性の両者を含む現象的個物を指す言葉と考えられよう。だから、現象としての「もの」とは、端的に、「もの」である。
 さて、カントの物自体であるが、この観点から言えば、物自体とは特異性である。プラトニック・シナジー理論から言えば、差異共振シナジー事象である。


注:以上は、「検討問題:メディア空間と自己との関係、その他」http://ameblo.jp/renshi/entry-10018941143.html
の2の部分を独立させたものです。

p.s. 「もの」と物質を以上のように分離できたが、=MIの意味をより精緻にする必要があるだろう。差異1=差異2の等号は、どういつことなのだろうか。本来は、両者、差異であるから、イコールにはならないはずである。このところの構造はどうなっているのか。思うに、連続性を意味する記号を考えた方がいいだろう。連続性をーで表記しよう。すると、差異1と差異2が連続すると、差異1ー差異2となり、これが、現象としてのミカンとなる。「もの」としてのミカンである。
 しかし、差異1−差異2は、差異1=差異2と同じ事象である。連続・同一性という現象化を意味しているのである。ここで、正確に記述するならば、ーや=の記号には、☯が内包されているのである。これを内在性と考えたのがドゥルーズ(&ガタリ、あるいは、ハイデガー)である。しかし、これを単に内在性とするのは誤りである。これは、内在超越性と見ないといけないのである。以前、私は、2度目の1/4回転のことを述べていたが、やはり、それを考えた方が明晰になると考えられるのである。メディア界からの1/4回転によって、連続・同一性化=現象化が生起すると考えるのである。メディア界における不連続性・差異と連続性・同一性の即非性・極性が隠蔽されて、連続性・同一性が顕在化して、現象化するのである。「もの」となるのである。
 結局、連続・同一性(ー・=)は、内在超越性を内包しているのである。つまり、☯を内包しているのである。そして、これが、現象である個物(「もの」)における特異性であろう。もし、純粋な超越性であれば、特異性は現象界においては、生起しないはずである。メディア界と現象界が、絶対的に分離することになるはずである。(もっとも、用語の問題もある。超越性で、内在的超越性を意味することもあるのである。混乱を避けるために、内在(的)超越性を超越論性と呼ぶこともできる。)
 ところ、2種類の1/4回転を考えることで、明確に四次元空間を説明できることになる。これまで、1種類の1/4回転のみで、空間を説明しようとして、三次元空間に留まっていたのである。これについては、後で再検討したい。

2006年10月22日

現代日本の亡神的エゴイズムとプラトニック・シナジー理論

先の考察から、現代日本の狂気が、亡神によることが判明した。これは、一つのブレイクスルーに近い考え方であろう。戦後日本、天皇が人間宣言をして、現人神は消滅した。と同時に、日本の神が喪失されたと言えよう。戦後、日本人が、アメリカの物質主義文明の洗礼を受けて、唯物科学・技術・資本主義を発達させたのである。象徴天皇制になり、神のシンボルが消えたのである。あるいは、神のアレゴリーが消えたのである。人間は不可視のものに対しては、鈍感である。可視的ならば、信じるのである。神のシンボル・アレゴリーの喪失とアメリカ物質文明とが、相俟って、戦後日本、今日の日本が形成されたと言えよう。
 思うに、戦後は折口信夫を例外として、神の精神を喪失していったと言えよう。私見では、初期〜中期の大江健三郎には、神の精神が作動していたと思う。(三島由紀夫は反動である。戦後日本への反動である。)結局、近代合理主義/唯物科学・技術/戦後民主主義が戦後近代主義を形成したのであり、それは、日本人の神の精神の喪失のもたらしたのである。現代の日本人の精神の荒廃は、この帰結である。精神の悪魔化である。
 この点について、理論的に考察しよう。端的に問おう。何故、神を避けるのか、排除するのか、排斥するのか、等々。戦前、戦中は、現人神/天照大神を信仰していたのに。棄神がある。折口信夫は、敗戦に際して、日本の神敗れたりと、無念の極みにあった。神道の神が、キリスト教の神に敗れたと考えたのである。しかし、不思議なことに、日本人は、アメリカ物質文明を貪欲に取り入れたが、キリスト教は取り入れなかった。これは、韓国において、クリスチャンが多いのに比すと、なおさら、不思議である。とは言え、積極的に日本人が神の信仰を表わしたわけではないのである。
 思うに、日本の神は、隠れたのではないだろうか。一種「お隠れ」である。だからこそ、潜在的に作動しているのである。そのため、邪教が蔓延り、人々に被害をもたらしていると言えよう。政治とつるんだ宗教団体、霊感商法、カルト、等々、淫祠邪教が蔓延っているのである。
 日本人の不幸は、隠れた日本の神のエネルゲイアがありながら、それを知性・理論・合理・科学化できないことにあったのではないだろうか。戦後の公教育の基本はいわば唯物科学教育であり、神の精神教育は喪失されているのである。これは、戦前の反動である。つまり、日本人の神のエネルゲイアはありながらも、戦後の唯物教育のために、日本人はそれを意識・認識・知性化できなかったのではないだろうか。仏教はともあれ(私は葬式仏教を廃止すべきと考えているが)、神道アレルギーがあるだろう。そうかと言え、キリスト教に改宗する気持ちは少ないだろう。否、キリスト教に改宗しても、日本的宗教としてのキリスト教になるだろう。
 結局、戦後から現代、日本人の神のエネルゲイアは潜在してきたが、これを意識・知性に取り込むことができずに、唯物科学・技術・産業を進展させてきたと言えよう。戦後の日本の発展は、根源には、この日本の神のエネルゲイアが駆動していたと考えられるのである。しかしながら、政治家、官僚、知識人等は、これを利己的に利用したのである。日本人の神のエネルゲイアを国民に意識化させない方向で、導いたのである。(おそらく、ここには、北米合州国の意向もあったろう。)そう、国民自身も、神のエネルゲイアを差別して、排除してきたと思うのである。アイヌや沖縄、在日人への差別は、これと関係するだろう。連続・同一性共同体信仰によって、差異を差別排除したのである。しかし、差異こそ、神のエネルゲイアの発現である。
 私見では、オイル・ショック以後、日本は、USAと「連帯」化して、現代のような神無し砂漠となってしまったのである。亡国である。
 議論が逸れてしまったが、ここで、神のエネルゲイアと唯物無神論の関係をまとめると、戦後米国的近代主義によって、神のエネルゲイアを排除・排斥するようにして、唯物論/近代的自我・合理主義が日本人の精神に定着するようになったのである。神のエネルゲイアとは、プラトニック・シナジー理論では、差異共振シナジー・「エネルギー」(=メディア界)のことである。(このエネルゲイアを物質的エネルギーと取ってはいけない。心身・精神的エネルギーである。)このエネルゲイアの排除・排斥が、今日、日本の常態になってしまっているのである。とりわけ、東京である。これは、利己主義であり、自我中心主義である。他者の喪失である。悪魔化である。差異の排除が、精神の構造になってしまっているのである。差異否定・排除・差別の連続・同一性=二項対立精神構造が形成されているのである。この悪魔的否定精神が、日本人にいわば、憑依しているのである。ニーチェ的に、ルサンチマンと言ってもいいだろうし、現代風に、自己愛性人格障害と言ってもいいだろう。偏執狂・パラノイア・分裂症である。近代主義狂気である。
 この神のエネルゲイアの排除構造を突破しないといけない。このためには、ポスト近代主義/ポスト唯物論しかないのである。これは、ポスト西洋文明である。アジア的神の新文明が生まれなくてはならないし、理論的には、プラトニック・シナジー理論によって、誕生しているのであるが。
 最後に、何故、神のエネルゲイアを否定・差別・排除・排斥・隠蔽するのか。恐怖であろう。それは、戦後日本、近代日本を破壊するからである。近代主義のアイデンティティを破壊するからである。そう、単独・孤独となることを恐れるからである。しかし、そのために、未来は閉ざされるのである。怯懦な日本人であり、未来を喪失しているのである。とまれ、もう一度問うと、何故、差異を恐れるのか。これが、疑問である。同一性自我陶酔がそこにはあるだろう。差異を否定して同一性自己である近代的自我を形成しているのである。そう、差異とは、特異性、単独性、不連続的差異に他ならない。他者とは、まったく異なる自己が差異である。だから、差異を意識したとき、自己と他者との距離ができるのである。不連続性があるのである。しかしながら、この不連続性・不連続的差異性を、人は恐れるのである。そう他人の目である。あるいは、世間の目である。それを恐れて、自己の差異・不連続的差異を否定・排除・隠蔽するのである。これである。つまり、差異が劣弱なのである。もし、差異が強ければ、他人の目・世間の目を恐れずに、差異を肯定して積極的に思考し、実践するだろう。差異の弱さである。
 思うに、差異を肯定するには、差異の理論が必要なのである。差異の思想・哲学・科学が必要なのである。差異の文化である。差異の言語である。差異の論理である。差異の芸術である。近代主義は、連続・同一性主義であるから、差異の理論は見つかりにくいのである。また、差異は、内在超越性であるから、近代的内在主義では、見出せないのである、もっとも、きっかけは、そこにあるとしても。
 とまれ、神のシンボルの喪失、近代的自我・近代合理主義・近代資本主義、差異理論の稀少さ、連続・同一性共同体の存在、等々によって、日本人は、差異である神のエネルゲイアを排除して、近代唯物的連続・同一性=集団狂気化したと考えられるのである。この差異=日本の神のエネルゲイアの否定・排除・隠蔽とは、暴力・傲慢・狂気・不毛である。

不連続的差異論(はてな)

不連続的差異論


不連続的差異論 ふれんぞくてきさいろん


★これは、ODA ウォッチャーズ氏とsophiologistがブログ上で出会って生まれた新しい理論である。端的に言えば、ジル・ドゥルーズの差異の哲学を、その連続性と不連続性との不整合さを取り除いて、後者中心に、首尾一貫・整合化したものである。これは、ポストモダニズム、ポスト構造主義の後退後や、グローバリゼーションを受けた後の、閉塞状況から生まれたものであり、多様な分野・領域での行き詰まりに解明・解決を与える統一的理論と考えられる。以下を参照されたい。

http://blog.melma.com/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0

http://kaisetsu.ameblo.jp/category-232976bb6994bc1dc0108d98b2b3a1d0.html

http://renshi.ameblo.jp/category-c500ecea7a687b51817aff1be94a2ccf.html

http://blog.melma.com/00112192/

http://blog.melma.com/00135605/20050317203443


★「不連続的差異論は、2004年9月、ODA ウォッチャーズ氏(『海舌』http://blog.kaisetsu.org/)とブログ上で遭遇して、生まれた理論です。哲学や数学的思考が基本になっていますが、文系、理系を超えて、様々な分野、領域に応用・適用が可能な理論だと自負しています。ぜひ、ご理解いただきたいと思っています。簡単にご説明しますと、イデア界とは、根源の世界であり、理念的世界で、ここに不連続的差異が境界を隔てて、共存しています。そして、境界がゼロ化するのが、メディア界です。1/4回転です。私見では、ここでは、不連続的差異は、真後ろを向いていません。さらに、1/4回転して(結局、180度回転となる)、裏返しになり、現象界になるのではないかと思われます。結局、不連続的差異が連なって一様になっているのが、眼にする世界、現象界です。 喩えますと、イデア界=バッテリー、メディア界=エネルギー、現象界=運動となるでしょう。」

http://ameblo.jp/renshi/


★不連続的差異

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db?kid=98883

http://blog.melma.com/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db


★後記:以下、不連続的差異論の新しい考え方がsophiologistから提起されている。これはまだ決定を見たものではなく、暫定的なものであるが、本理論の確立やさらなる発展のために役立つであろう。

http://blog.melma.com/00135605/20050322205819

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050524

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050525

http://d.hatena.ne.jp/antares/20050528


★プラトンとアリストテレスの統一論が提起された。

http://renshi.ameblo.jp/entry-d289c0176e3af660490d88bc80c5aa7a.html


★ODA ウォッチャーズ氏による不連続的差異論の新たな解明である『不連続的差異論ノート』が更新中である。

http://blog.melma.com/00138706/


★『不連続的差異論入門』として、本理論の平易な解説を始めた。

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913


★不連続的差異論の先駆として、ニーチェ/ドゥルーズ哲学だけでなく、フッサール現象学もそうであることが、考察された。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003750346.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003779798.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003913350.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003954621.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10003982905.html


★スピノザ哲学と現象学の統一が提起された。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004264966.html

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913/1845359#1845359


★課題として、ホワイトヘッド哲学と不連続的差異論の比較論が、不連続的差異論を最終的に西洋哲学の集大成であり、また、新しい世界哲学であることを、検証することになると期待される。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004271406.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004299001.html


★不連続的差異論とホワイトヘッド哲学との整合性・互換性の一つの試みが為された。まったくの試論段階であり、これから、さらに検討されねばならない。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004573995.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004716499.html (アフォーダンス理論との関連に言及)

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004985067.html (イデア界と現象界のインタラクションとしてメディア界を考えた。)

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005006893.html (ホワイトヘッドの「把握」(抱握)prehensionの概念について、ドゥルーズの『襞』の考察を介して、不連続的差異論から捉え直した。即ち、イデア界とメディア界の境界(I/M境界:Idea/Media-Boundary)のもつ創造性として把捉した。


★イデア界とメディア界の境界問題を解明した。即ち、差異共存志向性(フッサールの志向性ないし間主観性・相互主観性に相当する)が、イデア界の力に存することを解明した。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004835272.html


★sophiologistによる仮説であるが、ガウス平面であるイデア界は、x軸とy軸の直交座標をもち、それに直交するz軸が時間軸となり、これにさらに直交するα軸、β軸、γ軸の空間軸を考えた。即ち、イデア界は、x軸とy軸であり、y軸がイデア界とメディア界の境界であり、y軸⇒z軸はメディア界であり、そして、z軸、α軸、β軸、γ軸が時空四次元を構成するのではないかと考えた。

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-19.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004926125.html


★さらに展開させると、x、y,z,α、β、γ、δの7次元となった。これからもさらに検討を続ける。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004948722.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005127872.html


★ID(インテリジェント・デザイン)理論、プラトンの『ティマイオス』の宇宙創造神デミウルゴス、ユダヤ神秘思想の原人アダム・カドモンの概念も、不連続的差異共存体であるイデア界の概念で説明できるようである。結局、イデア界である差異共存体が人間個体に超越論的に内在しているということになった。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004956144.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004968981.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004977242.html


★物理学、相対性理論と量子力学との統一等に関しては、ODAウォッチャーズ氏の『不連続的差異論ノート』を参照していただきたい。思うに、不連続的差異論を、超ひも理論やペンローズのツイスター理論と比較検討することで、最終的に、不連続的差異論は、文系、理系の分化を超克した絶対的超統一理論として完成すると考えられる。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004826864.html


★不連続的差異論の経済への適用として、不連続的差異共存資本主義が提起された。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004930190.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005009762.html


★試論的段階であるが、イデア界の差異における垂直/水平力を提起した。これは、スピノザのコナトゥス(自己保存力)と一致すると考えている。また、この垂直/水平力に差異無限智識力を想定した。ここから、様々な適用が考えられ、経済においては、脱資本主義としての差異共存共創経済が提起された。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005127872.html


★いわゆる精神世界に関する批判的考察を行った。不連続的差異論は精神世界を批判的に包摂できる理論であることがわかった。精神世界はメディア界に属するのであり、仏教はこれを超越することを志向していると考えられる。だから、仏教と不連続的差異論は、脱精神世界的であり、イデア界を志向することを説くのである。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005199210.html


★ニーチェとフッサールの哲学は、それぞれ、イデア界に不連続的差異を記述していることを説いた。即ち、前者は絶対的不連続性を、後者は共存的志向性を説いていると考えられる。両者、不連続的差異の相補的記述と言うことができよう。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005207566.html


★近代的二元論の超克としての不連続的差異論が明確に提起された。フッサール現象学の「主観性」は、知即存在、認識即存在であり、超知性体であるということができる。フッサール現象学には、すでに、存在論を内包しているのであり、ハイデガーの存在論は連続論を取り入れているので、フッサールからの後退であり、また、ドゥルーズ&ガタリの理論も、そこから発してるので、やはり、ニーチェやフッサールの不連続性の基盤からは後退しているのでる。不連続的差異論が、ニーチェ/フッサールの不連続性を真に継承して、理論として結晶させたと考えられる。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005375439.html


★一神教と多神教の新たな検討から、一神教が不連続性への志向であり、多神教が共存性や連結性ヘの志向であると考察して、これを経済に適用して、新自由主義は一神教に当たり、それは、脱皮するように、個体差異自由共存経済へと進展すると考えられる。一神教と多神教の相補性があるのである。それは、イデア界の差異の垂直性・不連続性と差異の共存性との相補性である。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005389844.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005402686.html


★一神教、キリスト教、プロテスタンティズムと資本主義(新自由主義を含めて)との関係を考察した。暫定性は否定できないが、とりあえずの結論である。即ち、資本主義はルネサンスを内包したプロテスタンティズムと結ぶが、しかし、その近代的資本主義は、冷戦終了・グローバリゼーション・新自由主義によって、終焉するのである。ポスト近代主義の新時代となったのである。また、新資本主義は、母胎であったキリスト教も超克していくのであり、経済的自由主義(新自由主義)に対応する政治・社会・文化的自由主義の新構築が現代望まれるのである。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005571646.html


★種子の生長の構造を考察することで、メディア界の形相力(エネルゲイア)、内在・超越論的力が、現象力となっていることを考察した。「種子の場合は、種子のメディア界の超越論的力が、種子の胚芽にも作用しているのであり、その胚芽に水、熱、闇がはたらきかけて、発芽作用を起こすと言えるだろう。」

http://ameblo.jp/renshi/entry-10006107224.html


★現代物理学における4つの力を、イデア界における不連続的差異の即自性=対自性から説明した。即ち、不連続的差異の垂直/水平相補性の力を即自性=対自性の力と考えて、1/4回転の境界ゼロ化によって、4つの力(メディア界の力)が発生することを見た。ここでは、相対性理論が量子力学に包摂されるのである。そして、重力が無限大になる問題は不連続的差異の仮説によって、解消されるのである。理科系と文科系の分離を超えた超統一理論・絶対統一論として不連続的差異論がより明確になったと考えられる。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10006254622.html


★ODA ウォッチャーズ氏は、melmaのブログの終了を受けて、『不連続的差異論研究』というブログを立ち上げ、相対性理論等に関する注目すべき重要な論考を行なっている。

http://blog.discontinuousdifference.org/

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=47646


★イデア界=ガウス平面における1/4回転に関して、物理学を含んだ統合的な推論を行なった。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10007381240.html


★西欧近代のもつ意味を確認した。近代以前の形而上学的理ないし叡知を断絶して、不連続的差異・特異性であるコギト主義を発動させたのである。しかし、フッサールが説くように主客二元論を帯びてしまったのが近代合理主義である。しかし、必然的にコギト主義は、この近代の枠組を解体するのである。それが、ポストモダン革命であり、ニーチェが震源となっていること等を確認した。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10007565272.html


★ODA ウォッチャーズ氏は、toxandoria氏の音楽のクォリアへの言及を受けて、不連続的差異論から、音楽空間を解明している。(sophiologistの直観では、結晶のような洞察で、数学の公式のようである。)

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=79614#sequel


★ODA ウォッチャーズ氏は、大澤真幸氏の「政治的思想空間の現在〈前編〉 相互依存する多文化主義と原理主義」(『世界』2006年2月号)のコンセプトを、不連続的差異論的に発展させて、現代日本の思想空間を明快に解明した。伝統・共同体/モダン・構造主義/ポストモダン・脱構造主義という三幅対を提起して、朝日と読売の共闘によって、日本社会のポストモダン化への移行が現実的になったことを述べている。

http://blog.kaisetsu.org/?eid=291995

http://d.hatena.ne.jp/kaisetsu/20060113


★ODA ウォッチャーズ氏は、メディア界ないしメディアに関する重要な定式化を行なった。即ち、メディアとは、存在と非存在の中間的形式であることから、展開しているのである。これで、現代物理学、宇宙論におけるダークマターやダークエネルギーの問題も、メディア、メディア界によって説明できる目処がついた。

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117221

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117790

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=118255

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=119655

http://blog.kaisetsu.org/?eid=314624


★『レンブラントの眼、グリーン版』(toxandoria氏のHPの一つ)の中の「日本思想史の源流」には、不連続的差異論に通じる考察が含まれていると考えられる。

http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/nihon.htm


★『終の栖』氏から、不連続的差異論に対して、疑義が呈されたので、それに対するコメントをここに引用して、不審に思われる方々への、説明にさせていただきたいと思います。

「初めまして。

不連続的差異論について、簡単にご説明しますと、これは、純粋な科学ではありません。数学と哲学がベースになっている文理統一理論(仮説)で、その証明のために、現代物理学等に準拠します。この理論は、プラトンのイデア論のポストモダン的進展と言うべきもので、今日の物質主義的科学とは全くことなる考え方をもっています。イデアである不連続的差異を前提としています。まだまだ、深化の過程で、思い込みが強かったり、勇み足であったりするところがあるのは、自分でもわかっています。いわば、試行錯誤をしていますので、ご寛容をお願いしたいと思います。なお、この理論(仮説)は、私とODA ウォッチャーズ氏との合作であります。

是非、両方の本拠地のブログをご覧ください。

http://ameblo.jp/renshi/

http://blog.kaisetsu.org/

http://blog.discontinuousdifference.org/』 (2006/02/11 20:29)」

http://d.hatena.ne.jp/entschlafen/20060211/1139617352#cへのコメント


★不連続的差異論に関係する内容を含んでいると思われるサイト(『窮理の一夜漬け』)がありましたので、ここにご紹介します。

http://blog.livedoor.jp/psytex1/archives/50350546.html

http://blog.livedoor.jp/psytex1/archives/50296301.html

http://blog.livedoor.jp/psytex1/archives/50303729.html


★キーワードをわかりやすくして欲しいという要望がありました。以下の記事は、不連続的差異論入門という意図で書いたものですので、わかりやすくなっていると思います。ただし、この理論は、実に簡潔な形をしていますが、ポスト構造主義、数学を中心に、専門的な知識を背景にもっていますので、よく理解したい読者の方々には、是非、専門書をお読みになることをお奨めします。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005195076.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10008051316.html

http://ameblo.jp/renshi/theme-10000462643.html



★以上の初めの二つの記事をここに貼り付けて、不連続的差異論の一般的普及を図りたいと思います。

《不連続的差異論入門

簡単に説明します。

先ず、不連続的差異が多数ないし無数あるイデア界を想定します。

不連続的差異をdで表しますと、

イデア界

d1/d2/d3/・・・/dn

となります。/は境界です。

そして、これが、連結するのがメディア界です。(実は、数学に関係する部分ですが、割愛します。)

メディア界

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

〜はメディア界の連結の記号です。これは、また、ゆらぎも意味するので、メディア界の連結した差異は、多様体となります。あるいは、位相空間となります。

そして、これが、完全に連続化して、同一体を形成します。これが現象界です。

現象界

d1ーd2ーd3ー・・・ーdn

ーは連続化・同一性化の記号です。これが、今、眼にする世界を意味します。

どうですか。実に簡単ですね。これで、森羅万象が説明できるのです。詳しくは、ODAウォッチャーズ氏の『不連続的差異論ノート』と、このブログの「不連続的差異論の誕生」他を見てください。

『不連続的差異論ノート』

http://blog.melma.com/00138706/

「不連続的差異論の誕生」

http://ameblo.jp/renshi/theme-10000271269.html

「不連続的差異論入門講座」

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913?STYPE=1&KEY=117172

p.s. 重要な、イデア界とメディア界の境界(IM境界)について言いませんでした。ここは、d1/d2/・・・/dnとd1〜d2〜・・・〜dnがいわば、融合する領域です。不連続性が、連続化されます。しかし、不連続性と連続性との一致というきわめて、パラドクシカルな事象がここには起きています。図式化すれば、

d1/d2/d3/・・・/dn⇔d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

です。不連続でありつつ、また、連続であるのです。おそらく、もっとも、不可思議な事象でしょう。》

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005195076.htmlから

_________________________________________________

《不連続的差異論基礎編:その1:記号化する

ここでは、不連続的差異論を直観的にわかるように、記号化したい。精緻な数学的理論化に関しては、『不連続的差異論研究』を参照されたい。

http://blog.discontinuousdifference.org/

イデア界     ◯ないし⊕

 ↓       ↓    1/4回転

メディア界    ◑ 

 ↓       ↓    1/4回転

現象界      ●

又は、

イデア界:  ○○○○○○○○○○○○○○

 ↓

メディア界: ◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑

 ↓

現象界:   ●●●●●●●●●●●●●●

あるいは、

イデア界:  ◯|◯|◯|・・・|◯|◯

 ↓

メディア界: ◑⇔◑⇔◑⇔・・・⇔◑⇔◑

 ↓

現象界:   ●ー●ー●ー・・・ー●ー●

尚、

○はイデア=不連続的差異、

◑はメディア=連続的差異、

●は現象=連続・同一性

を表わす。

また、|は境界、⇔は連続化、ーは、同一化を表わす。注意すべきは、メディア界の◑のサインである。これは、イデア界と現象界の中間であることを表わしている。つまり、不連続性と連続性の相補性がここにあるということになる。これは、陰陽の記号でもいい。

http://www.epochtimes.jp/jp/2005/08/img/m65208.jpg

結局、不連続的差異論は、プラトン哲学の差異論化である。プラトンは、現象・仮象は、イデア界の影であると言ったが、イデア界を○、現象界を●と表記するのは、正に的確である。

p.s. ODA ウォッチャーズ氏の指摘から、以下のようにするのが、一番適切である。

イデア界: ○|○|○|・・・|○|○

 ↓

メディア界:☯♒☯♒☯♒・・・♒☯♒☯

 ↓

現象界:  ●ー●ー●ー・・・ー●ー●

尚、|は境界、☯は陰陽的相補性、♒は共鳴、ーは、連続・同一性を表す。

又は、

イデア界: ○○○○○○○○○○○○○○○○○

 ↓

メディア界:☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯

 ↓

現象界:  ●●●●●●●●●●●●●●●●●》

http://ameblo.jp/renshi/entry-10008051316.htmlから



★不連続的差異論の図式です。

不連続的差異discrete or discontinuous differenceをdd、連続的差異をcontinuous differenceをcdと記号化する。/は、境界であり、≈は、ゼロ度による共鳴・共役性であり、intはintegralの略で、積分である。IM 境界とはイデア/メディア境界で、MP境界とは、メディア/現象境界である。

_______________________

イデア界: 

dd1/dd2/・・・/ddn

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    

IM境界: 

dd1/dd2/・・・/ddn(コスモス)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

cd1≈cd2≈・・・≈cdn

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 

 

メディア界:

cd1≈cd2≈・・・≈cdn(カオスモス)

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 

MP界:                 

cd1≈cd2≈・・・≈cdn

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

int1ーinte2ー・・・ーint n-1

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現象界: 

int1ーinte2ー・・・ーintn-1(連続的同一性)

_______________________

コメント:個々ののddが特異性・単独性といよりは、ddの総体(dd1/dd2/・・・/ddn)が、特異性・単独性なのではないだろうか。イデア面(イデア/メディア境界におけるイデア界への側面)ないしイデア界の《力》が連続性を解体すると言えよう。この解体が特異性・単独性の「感覚」をもたらすのではないか。

 作家がいうコスモスとは、ddの総体のことではないか。また、共感・倫理性も、ここから発するのではないか。

 なお、連続的差異cdとは、微分である差異である。

http://d.hatena.ne.jp/antares/20060224



★不連続的差異論に通ずる認識をもつブログの紹介

不連続的差異論の特色は、主に、二つあります。

1)差異を不連続的差異と連続的差異に分類して、前者がイデア界を構成し、後者がメディア界を構成していると仮説していることです。

2)1/4回転することで、ゼロ度が発生して、連結・連続化が生じると仮説していることです。

不連続的差異論に通ずる考え方をしているブログがいくつかあります。ただし、不連続性を明確に主軸にして理論化しているのは、不連続的差異論だけだと思います。

1.ヌース理論オフィシャル・サイト

http://www.noos.ne.jp/

2.窮理の一夜漬け

http://blog.livedoor.jp/psytex1/

3.現代物理と仏教を考えるページ

http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/index.html

4.レンブラントの眼グリーン版の「日本思想史の源流」

http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/

5.「いき」の構造(最近更新がないのが残念です)

http://ameblo.jp/novalis666/


★ヌース理論は、対称性の論理によるイデア論、数学、量子力学を統一した理論である。しかし、今、見るところでは、差異=微分の前提に立った理論であると思われる。これは、ほぼ、不連続的差異論のメディア/現象境界の理論に当たるように思える。しかし、連続的差異を前提にしているため、連続性・同一性の陥穽に陥っているように思える。もっとも、周到な対称性による統一理論への営為は認めなくてはならない。その大胆な理論化は、不連続的差異論のさらなる構築へのヒントを含んでいると考えられる。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10009479087.html


★メディア界・メディア空間に関して、3層性の解明を行なった。即ち、

1.イデア/メディア境界

2.メディア界

3.メディア/現象境界

の3層性を、それぞれ、特異性、相補性、同一性と把捉し、それらが、併存している領域・空間であることを提示した。また、1のイデア/メディア境界=特異性が基層となっているのである。この解明によって、ポストモダン理論が新たに定義されることになったのである。結果、ポストモダン理論を新構築したことになった。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10009553631.html


★ヌース理論を提唱されている半田広宣氏との生産・創造的な理論的交換を行なう。ヌース理論が、不連続的差異論と共通する世界観を目指しているのがわかった。

http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060303

http://ameblo.jp/renshi/entry-10009670169.html


★記号化の変更(現象界の同一性を*で表現する)

イデア界:dd1/dd2/・・・/ddn

メディア界:dd1☯dd2☯・・・☯ddn

現象界:dd1*dd2*・・・*ddn

http://ameblo.jp/renshi/entry-10009744456.html



★不連続的差異論を簡潔に表記する。これが一番平明であると思われる。

イデア界:差異1/差異2/・・・/差異n

メディア界:差異1☯差異2☯・・・☯差異n

現象界:差異1=差異2=・・・=差異n

尚、差異は不連続的差異の略であり、/は境界、特異性や単独性を、☯は相補性を、=は同一性を表す。


★「同一性、ルサンチマン、近代的自我:同一性構造と差異的他者:特異性・不連続的差異進化へ向けて」というタイトルで、差異と同一性の問題を論じ、同一性の構造とルサンチマンと近代的自我との一致を考察し、また、それが、ユダヤ・キリスト教的西洋文明の帰結であることを見た。そして、不連続的差異によるミクロコスモスの世界文明への進化を説いた。

http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060311

http://ameblo.jp/renshi/entry-10009973871.html


★同一性構造とメディア界との関係について思索していたが、一つの作業仮説として、これまで、現象界の発生を二つの1/4回転から考えていたが、三つの1/4回転によると考えるべきであるということになった。つまり、差異・他者を排除する同一性構造(自我)とは、三回目の1/4回転によると考えた方が、整合的である。なぜなら、2つ目の1/4回転で、メディア/現象境界が発生するが、それは、メディア界(差異)と現象界(同一性)の両義性をもつのであり、差異を排除する純粋な同一性構造(自我)ではないのであるからである。

 簡単に図式化する。

Aイデア界B/Cメディア界D/E現象界F

第1の1/4回転 Aイデア界B

第2の1/4回転 Cメディア界D

第3の1/4回転 E現象界F

http://ameblo.jp/renshi/entry-10010406893.html

http://d.hatena.ne.jp/antares/20060321


★不連続的差異論の新たな図式化を行なった。

イデア界:差異1⊕差異2⊕・・・⊕差異n

メディア界:差異1☯差異2☯・・・☯差異n

現象界:差異1╬差異2╬・・・╬差異n

尚、╬の記号は、時空四次元を生む同一性化を意味する。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10010556524.html


★ヌース理論と不連続的差異論との対応に関する、半田広宣氏の鋭敏な説明があり、それに対して、sophiologistが意見を述べた。以下が半田氏の図式であるが、→の箇所はsophiologistの考えの付加である。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10010622804.html

1、現象界(NOS*、NOOS*)………子(想像界)→象徴界

2、メディア界(NOS*、NOOS*、NOS、NOOS)………聖霊(現実界)→想像界

3、イデア界(NOOS、NOS)………父(象徴界)→現実界(実在界)


★不連続的差異論を理解するための、あるいは、イデア論的思考のための文献リスト(哲学・思想関係)を作成した。

http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060328

http://ameblo.jp/renshi/entry-10010635053.html

尚、以下が第3版です。

http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060331


★連続化されるイデアについて考察して、ポスト量子力学、ポスト大乗仏教という立場に達した。p.s. 勿論、一私案・一試案である。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10011342194.html


★toxandria氏の「[情報の評価]『1439年、東西統一公会議』の現代的意味(1)」

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060414/p1

という論考を受けて、ODA ウォッチャーズ氏が、以下の論考を提出した。それは、toxandria氏が上記の論考の中で言及されている

西洋文明における視覚優位性に対する、不連続的差異論のメディア界における差異の共立である諸感覚の共立という考えを提示したものである。

「人間の存在認識の多様性と(不連続的差異論上の)メデイア界について」『海舌』

http://blog.kaisetsu.org/?eid=363490

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=223622


★上記のODA ウォッチャーズ氏の刺激的な論考を受けて、sophiologistが、以下の論考を書いた。

「差異の共立とは何か:東西文明統一とパラモダン・コスモス超文明/新ヘレニズムの誕生」

これは、西洋文化・文明の視覚優位性を、差異と同一性の観点から解明する試論である。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10011469154.html

http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20060418


★先に、プラトン哲学とアリストテレス哲学の統一を述べたが、その構成を訂正することとなった。

即ち、

イデア界(イデア潜在態)/メディア界(デュナミス→エネルゲイア)/現象界(エンテレケイア)

となる。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10013458900.html


★不連続的差異論が発展して、NEW PLATONIC SYNERGY THEORY という名称を使用することになった。

即ち、差異共振シナジーのもつ意味を、明確にした理論である。

http://main.platonicsynergy.org/

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913/2620535#2620535


★ヌース理論が、きわめて問題の多い、似非理論であることが判明した。

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913?TYPE=1&genreid=142991
http://ameblo.jp/renshi/theme-10002292073.html
posted by sophio at 03:51| Comment(0) | TrackBack(6) | 不連続的差異論入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

不連続的差異論を平明に記号表記する:標準版:文献案内付き

以下は、プラトニック・シナジー理論の前身である不連続的差異論の説明です。

不連続的差異論を平明に記号表記する:標準版:文献案内付き

★キーワード (不連続的差異論)をわかりやすくして欲しいという要望がありました。以下の記事は、不連続的差異論入門という意図で書いたものですので、わかりやすくなっていると思います。ただし、この理論 は、実に簡潔な形をしていますが、ポスト 構造主義、数学 を中心に、専門的な知識を背景にもっていますので、よく理解したい読者の方々には、是非、専門書をお読みになることをお奨めします。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005195076.html

http://ameblo.jp/renshi/entry-10008051316.html

http://ameblo.jp/renshi/theme-10000462643.html



★以上 の初めの二つの記事をここに貼り付けて、不連続的差異 論の一般的普及を図りたいと思います。

《不連続的差異 論入門

簡単に説明します。

先ず、不連続的差異 が多数ないし無数あるイデア 界を想定します。

不連続的差異 をdで表しますと、

イデア 界

d1/d2/d3/・・・/dn

となります。/は境界です。

そして、これが、連結するのがメディア 界です。(実は、数学 に関係する部分ですが、割愛します。)

メディア 界

d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

〜はメディア 界の連結の記号です。これは、また、ゆらぎも意味 するので、メディア 界の連結した差異は、多様体 となります。あるいは、位相空間 となります。

そして、これが、完全に連続 化して、同一体を形成します。これが現象界です。

現象界

d1ーd2ーd3ー・・・ーdn

ーは連続 化・同一性化の記号です。これが、今、眼にする世界を意味 します。

どうですか。実に簡単ですね。これで、森羅万象が説明できるのです。詳しくは、ODA ウォッチャー ズ氏の『不連続的差異 論ノート 』と、このブログ の「不連続的差異 論の誕生 」他を見てください。

『不連続的差異 論ノート 』

http://blog.melma.com/00138706/

「不連続的差異 論の誕生 」

http://ameblo.jp/renshi/theme-10000271269.html

「不連続的差異 論入門講座」

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913?STYPE=1&KEY=117172

p.s. 重要 な、イデア 界とメディア界の境界(IM境界)について言いませんでした。ここは、d1/d2/・・・/dnとd1〜d2〜・・・〜dnがいわば、融合する領域です。不連続性が、連続 化されます。しかし、不連続 性と連続 性との一致というきわめて、パラドクシカルな事象がここには起きています。図式化すれば、

d1/d2/d3/・・・/dn⇔d1〜d2〜d3〜・・・〜dn

です。不連続 でありつつ、また、連続 であるのです。おそらく、もっとも、不可思議 な事象でしょう。》

http://ameblo.jp/renshi/entry-10005195076.html から

_________________________________________________

《不連続的差異 論基礎編:その1:記号化する

ここでは、不連続的差異 論を直観的にわかるように、記号化したい。精緻な数学 的理論 化に関しては、『不連続的差異 論研究 』を参照されたい。

http://blog.discontinuousdifference.org/

イデア 界     ◯ないし⊕

 ↓       ↓    1/4回転

メディア 界    ◑ 

 ↓       ↓    1/4回転

現象界      ●

又は、

イデア 界:  ○○○○○○○○○○○○○○

 ↓

メディア 界: ◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑◑

 ↓

現象界:   ●●●●●●●●●●●●●●

あるいは、

イデア 界:  ◯|◯|◯|・・・|◯|◯

 ↓

メディア 界: ◑⇔◑⇔◑⇔・・・⇔◑⇔◑

 ↓

現象界:   ●ー●ー●ー・・・ー●ー●

尚、

○はイデア =不連続的差異 、

◑はメディア =連続 的差異、

●は現象=連続 ・同一性

を表わす。



また、|は境界、⇔は連続 化、ーは、同一化を表わす。注意すべきは、メディア 界の◑のサイン である。これは、イデア 界と現象界の中間であることを表わしている。つまり、不連続 性と連続 性の相補性がここにあるということになる。これは、陰陽の記号でもいい。

http://www.epochtimes.jp/jp/2005/08/img/m65208.jpg

結局、不連続的差異 論は、プラトン 哲学 の差異論 化である。プラトン は、現象・仮象 は、イデア 界の影であると言ったが、イデア 界を○、現象界を●と表記するのは、正に的確である。

p.s. ODA ウォッチャー ズ氏の指摘から、以下のようにするのが、一番適切である。

イデア 界: ○|○|○|・・・|○|○

 ↓

メディア 界:☯♒☯♒☯♒・・・♒☯♒☯

 ↓

現象界:  ●ー●ー●ー・・・ー●ー●

尚、|は境界、☯は陰陽的相補性、♒は共鳴 、ーは、連続 ・同一性を表す。

又は、

イデア 界: ○○○○○○○○○○○○○○○○○

 ↓

メディア 界:☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯☯

 ↓

現象界:  ●●●●●●●●●●●●●●●●●》

http://ameblo.jp/renshi/entry-10008051316.html から



★不連続的差異 論の図式です。

不連続的差異 discrete or discontinuous differenceをdd、連続 的差異をcontinuous differenceをcdと記号化する。/は、境界であり、≈は、ゼロ度による共鳴 ・共役性であり、intはintegralの略で、積分である。IM 境界とはイデア /メディア 境界で、MP境界とは、メディア /現象境界である。

_______________________


イデア 界: 

dd1/dd2/・・・/ddn

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    

IM境界: 

dd1/dd2/・・・/ddn(コスモス )

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

cd1≈cd2≈・・・≈cdn

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 



メディア 界:

cd1≈cd2≈・・・≈cdn(カオスモス )

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー 

MP界:                 

cd1≈cd2≈・・・≈cdn

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

int1ーinte2ー・・・ーint n-1

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


現象界: 

int1ーinte2ー・・・ーintn-1(連続 的同一性)

_______________________

コメント :個々ののddが特異性・単独性といよりは、ddの総体(dd1/dd2/・・・/ddn)が、特異性・単独性なのではないだろうか。イデア 面(イデア /メディア 境界におけるイデア界への側面)ないしイデア 界の《力》が連続 性を解体 すると言えよう。この解体 が特異性・単独性の「感覚」をもたらすのではないか。

 作家 がいうコスモス とは、ddの総体 のことではないか。また、共感・倫理 性も、ここから発するのではないか。

 なお、連続 的差異cdとは、微分 である差異である。

http://d.hatena.ne.jp/antares/20060224



★不連続的差異 論に通ずる認識 をもつブログ の紹介

不連続的差異 論の特色は、主に、二つあります。

1)差異を不連続的差異 と連続 的差異に分類して、前者 がイデア 界を構成し、後者 がメディア 界を構成していると仮説していることです。

2)1/4回転することで、ゼロ度が発生して、連結・連続 化が生じると仮説していることです。

不連続的差異 論に通ずる考え方をしているブログ がいくつかあります。ただし、不連続 性を明確に主軸にして理論 化しているのは、不連続的差異 論だけだと思います。

1.ヌース理論 オフィシャル ・サイト

http://www.noos.ne.jp/

2.窮理の一夜漬け

http://blog.livedoor.jp/psytex1/

3.現代物理 と仏教 を考えるページ

http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/index.html

4.レンブラント の眼グリーン 版の「日本 思想 史の源流」

http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/nihon.htm

5.「いき」の構造(最近 更新 がないのが残念 です)

http://ameblo.jp/novalis666/


★ヌース理論 は、対称性の論理 によるイデア 論、数学 、量子力学 を統一した理論 である。しかし、今、見るところでは、差異=微分の前提に立った理論 であると思われる。これは、ほぼ、不連続的差異 論のメディア /現象境界の理論 に当たるように思える。しかし、連続的差異を前提にしているため、連続 性・同一性の陥穽に陥っているように思える。もっとも、周到な対称性による統一理論への営為は認めなくてはならない。その大胆な理論 化は、不連続的差異 論のさらなる構築へのヒントを含んでいると考えられる。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10009479087.html


★メディア 界・メディア 空間に関して、3層性の解明を行なった。即ち、

1.イデア /メディア 境界

2.メディア 界

3.メディア /現象境界

の3層性を、それぞれ、特異性、相補性、同一性と把捉し、それらが、併存している領域・空間であることを提示した。また、1のイデア /メディア境界=特異性が基層となっているのである。この解明によって、ポストモダン 理論 が新たに定義されることになったのである。結果、ポストモダン 理論を新構築したことになった。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10009553631.html



★記号化の変更(現象界の同一性を*で表現する)

イデア 界:dd1/dd2/・・・/ddn

メディア 界:dd1☯dd2☯・・・☯ddn

現象界:dd1*dd2*・・・*ddn

http://ameblo.jp/renshi/entry-10009744456.html


★不連続的差異 論を簡潔に表記する。これが一番平明であると思われる。

イデア 界:差異1/差異2/・・・/差異n

メディア 界:差異1☯差異2☯・・・☯差異n

現象界:差異1=差異2=・・・=差異n

尚、差異は不連続的差異 の略であり、/は境界、特異性や単独性を、☯は相補性を、=は同一性を表す。


★不連続的差異論の新たな図式化を行った。

イデア界:差異1⊕差異2⊕・・・⊕差異n

メディア界:差異1☯差異2☯・・・☯差異n

現象界:差異1╬差異2╬・・・╬差異n

尚、╬の記号は、時空四次元を生む同一性化を意味する。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10010556524.html


________________________________________


以上、はてなダイアリー「不連続的差異論とは」から
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0?kid=98880

________________________________________

文献案内
http://ameblo.jp/renshi/entry-10010635053.html
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2006年10月16日

プラトニック・シナジー理論(はてな)

プラトニック・シナジー理論

プラトニック・シナジー理論 ぷらとにっくしなじーりろん


正式名:NEW PLATONIC SYNERGY THEORY

不連続的差異論の進展として、本理論が形成された。

不連続的差異論が、不連続的差異としてのイデアないし差異の創造

によって、ポストモダンないしポスト構造主義の欠点を克服した、

脱構造主義としての差異論であると考えられる。

 それに対して、本理論は、不連続的差異・イデアの零度共振シナジーの

様相に着目した点で、さらに進展したものと考えられるのである。

不連続的差異の零度共振シナジー様相は不連続的差異の共立する

ダイナミックな様相であり、本質的に創造的ないし共創造的な領域である。

 鈴木大拙氏の即非の論理がもっとも明快・明確に、差異共振シナジー様相を

説明するものと考えられる。なお、ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』

の「第三の論理学」も、これを説明するものと考えられる。

簡単に図式化すると、

    ★不連続的差異論★

1.イデア界/2.メディア界/3.現象界

        ↓

        ↓  

    ★プラトニック・シナジー理論★

1.不連続的差異の共立(根源)/2.不連続的差異の零度共振シナジー/3.同一性現象界

尚、詳細については、以下のブログを参照されたい。

http://main.platonicsynergy.org/

http://theory.platonicsynergy.org/

http://blog.kaisetsu.org/

http://ameblo.jp/renshi/theme-10002391554.html

http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913?TYPE=1&genreid=142990

参考

『新編 東洋的な見方』 (岩波文庫)

鈴木 大拙 (著), 上田 閑照 (編集)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003332326/sr=8-1/qid=1158998392/ref=sr_1_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=gateway

『ターシャム・オルガヌム(第三の思考規範)―世界の謎への鍵 』

P.D. ウスペンスキー (著), P.D. コスモスライブラリー、高橋 弘泰 (翻訳), 小森 健太朗

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4795223793/ref=sr_11_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8

2006年10月13日

プラトニック・シナジー理論入門:1

これから、少しずつ、プラトニック・シナジー理論について、わかりやすく説明したいと思います。今考えているのは、多く人にとって、分かりにくいのは、この理論のイメージがわかないからではないかということですので、私の頭にある、イメージ、ヴィジョン、直観像、概念像を、提示したいと思います。私は、いつも、このヴィジョンを基にして、考察しています。ですから、このヴィジョンをわかりやすく提示すれば、多くの人にとって、本理論がわかりやすいものになるのではと思われます。是非、ご自由に、ご質問ください。

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